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コリオレイナスとスパルタカス

この連休は、共和制ローマ漬けだった。そして、『キケロ -- もう一つのローマ史』だ。
つくづく、政治というものがいつの世でも同じなのにビックリさせられる。まったく、進歩していない・・・。

だけど、政治(形態)に進歩なんて、そもそもあるのか?そして、社会に理想形なんてあるんだろうか?


20070918_coriolanus.jpgその一つは『コリオレイナス』。ご存知シェイクスピアの歴史モノだ。蜷川幸雄の演出で、主演は唐沢寿明。(シェイクスピアの史劇と言ってはイケイナ!・・・・そうだ。史劇はイギリス王家の歴史に限るのだとか・・・。だから、ジュリアス・シーザーも歴史モノと呼ばれるのだとか)
大衆は平和になると愚かになるというところを鋭く突いているのだが、シェイクスピアの悲劇の常で、大衆の愚をあざ笑うからと言って権力者に迎合する訳ではない。

しかし、政治って、一体、誰のものなんだろう?

コリオレイナスは『何故、祖国のために命をかけて闘い、周辺部族から脅威を拭い去ってやったのに、大衆は自分を支持しないのだ?』と言い、大衆の代表である護民官の罠に嵌り、大衆をなじり、ついには祖国ローマを追放にまでなってしまうのだが。。。。

自分では何もせず、外野から野次を飛ばすだけや策を労するだけの“無責任な人”が大嫌いな私は、コリオレイナスに感情移入する側の人間だ。

そして、『こんなバカな奴らのために、やってられるかい!』ってなっちゃう。

しかし、もともと誰の為に国を守ってきたのか?に立ち返れば、もしかしたらコリオレイナスは“自分の為”だったかもしれない。でも、自分の為に独裁政治を行ったとしても、結果的に国が維持できれば、それは大衆の為になるわけで・・・。政治形態の問題ではなく、それを行う人間の資質で、世の中は良くもなり、悪くもなる・・・・のではないのか?

そして究極は、誰かどうやっても結果は同じ・・・・・。

世が平和になると、愚かな大衆に迎合し煽動する為政者が台頭するところなんざぁ、まさに現代日本をそのまま見ているような気にさせてくれる。護民官が民主党の“小沢一郎”(鳩山とか菅も)に、はたまたマスコミ(特に朝日新聞)にダブってしまい、歯軋りしながら見ていたのだが、最後には“空しさ”で一杯になってしまった。


20070918_spartacus.jpgもう一つは、スタンリー・キューブリックの『スパルタカス』だ。カーク・ダクラス主演のこの映画は、たしか中学生の頃に見たと思うのだが、すっかり忘れていた。長すぎて、つまらなくなって、途中で止めてしまったのかもしれない。が、それとも、スクリーンかロードショー(映画雑誌)で見たワンシーンが記憶に残っていただけかもしれない・・・。

史実としての“スパルタクスの乱”があった当時、共和制ローマの登場人物はクラッスス、グラックス、カエサル(まだ若い)、へまをやったことだけ有名なクラウディウスだ。スッラも同様、ミトリダデスと闘っていたポンペイウスは映画の中では名前だけが登場するだけだったが、(キケロが名前すらでなかったのが残念だが)今“ローマ萌え~”の私には、この登場人物だけで興奮しないわけがない。

で、そのスパルタクスの乱は『ローマ人の物語』、『ルビコン』、『キケロ』を読んでいても、それからネットで共和制ローマの情報を漁っていても、この映画のようなイメージは湧いてこなかった。

『スパルタカス』を観たら・・・・・まさに、立場を変えると、事実は違う印象を与えられるという典型だなぁと感じた。

今までは、スパルタクスとその一味は、アッピア街道で磔(ローマの磔は餓死させるものだった)にされたとしても『悪い事したんだから、当然ジャン』『ポンペイウス、がんばれ』ってな調子だったんだけど、この映画を観てからは、『スパルタクスに、シチリアに逃げ延びて欲しかったぁ』『キリキアの海賊に賄賂を贈って裏切らせたなんて、キタナイぜ!ローマ』と。

いつも、大義を背負った大きな争いに“善悪の区別は無い”って言っている私だが、でも、感情移入は激しい。っていうか、“善悪の区別は無い”は自分を戒めるための言葉でもある。

映画では、執政官でありながらローマ全軍の指揮権を得たクラッススの演説とキリキアの海賊に裏切られ最後の決戦を意識しての反乱軍に対するスパルタクスの呼びかけが、数秒ごとに交互に描かれ、対比され、それぞれに大義がある事を印象付けている。

この映画はカーク・ダグラスがキューブリックに頼んで監督を引き受けてもらったそうで、ダグラスの意図が色濃く反映されているらしい。

『スパルタカス -- もう一つのローマ史』って感じてしまった。

ダグラスは、大衆に定着しているローマ史のイメージをぶっ壊せ、或いは反権力は受けるって事で描いたのかもしれない。そんな製作者の罠にまんまと嵌ってしまったのかもしれないが、小説とか映画ってのは、登場人物に感情移入できないと、まったくつまらないものになってしまう。そして、この『スパルタカス』は、印象操作というよりは、私にとって結果的に大衆のイメージを中立に戻してくれたという点で、優れた作品なのかもしれない。

まぁ、そんな映画評論家みたいな批評なんてするつもりはないのだが、『スパルタカス』を通じて観た共和制ローマは、また、別のものに見えてくる。

『キケロ -- もう一つのローマ史』の中で、キケロの言葉として書かれているのだが、国家と言うものは、いろんな考えの人が織り成すハーモニーのようなものだと。弁護士は裁判に勝つ事が使命であるのも、真実を暴く人、正義を貫く人がそれぞれ最善を尽くす事のハーモニーにより、全体として調和の取れたものとなるとの考えからだということだろう。

それと同じで、いろんな考え、いろんな身分、職種、立場、、、、これら違いがある人が一つの国に居るから“和音”になるのだろう。“単音”だけだったり、また、一つ一つの音を単独で取り出して聞いても“和音”の印象にはならないと言う事は、誰でも経験するところだと思う。そして、和音とならない“音”が混じると“全体”を台無しにしてしまうのも、経験するところだ。

あのベートーベンは『Dm(ディー・マイナー)が、どのマイナー和音より一番悲しい』と言ってるとか!(天才ウクレレ奏者 Jake Shimabukuro が言っているのを聞いた。この人、最近の私のお気に入りミュージシャンです)相対的な音の組み合わせによる全体のトーンの他に、絶対的な組み合わせによって“トーン”に差の付く事を言葉に出して指摘するなんて、ベートーベンやっぱスゲェけど、社会に置き換えれば、マスコミの強さと、政治家の強さと、労働者の強さと、経営者の強さと、技術者の強さと、消費者の強さと、生産者の強さと、、、、バランスだけではなく、その音程によっても、暗い社会、落ち着いた社会、成熟した社会、、、、と違いが出るんだろう。

今の日本は、どんなハーモニーなんだろう?(ハーモニーというより、マスコミが突出してハモってるとは思えないけど・・・)

でも、キケロの時代にオーケストラなんてあったのか?

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2007年09月18日 12:36に投稿されたエントリーのページです。

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