siRNA から見た生命の混沌と司馬遼太郎
哺乳類の siRNA が何から生成されるかといえば、全てがわかっているわけじゃないけど、トランスポゾンだったり、レトロポゾンだったりするわけだ。
理研の林崎らにより、DNA は全体の70%にも及ぶ領域が転写されていたことが解明された事は前にも書いたけど、この中にも、当然、レトロポゾンも含まれている。
一体何のために?・・・・・なんて考えてはいけない!
生命は、とにかく、行き当たりばったり、とりあえず転写しておく、、、、、そして、その転写物の中の一部は、折れ曲がって二本鎖を形成し、あるものは、相補的な相手と二本鎖を形成する。
こんな二本鎖を、(全く役に立たないから、)Dicer が適当なサイズにブツ切りにすると、これが今で言う siRNA として機能し、これらの(役に立たない)二本鎖を排除する。
こんな仕組みでの排除を免れた転写物は、あるものは分子内で小さなループ構造を形成し、それらが Drosha/DGCR8 や Dicer によって miRNA とされ、他の(役に立たない)転写物の排除機能や蛋白質への翻訳制御を担うことになる。
またまた、そんな仕組みでの排除を免れた転写物は、あるものは単に分解されちゃって、あるものは蛋白質の設計図となり、あるものは、アミノ酸の運搬係りとなり、あるものは、タンパク質性製造工場となり、、、、
って、逆から見ると、括弧でくくった→『(役に立たない)』って転写物は、結果論で「役立たず」ということが言えるだけで、最初から、「役立たず」だった訳じゃない。
なぜかと言うと、今、地球上にいる生物は、残り物で、うまく“生きている”を表現できただけだから・・・・だ。それに、見方を変えれば、外来ウイルスに対する防御機構とも見えるし、実際、Dicer がぶった切る作用が防御機構として機能してるし・・・・こんなものが転写されなきゃ、Dicer なんて自然消滅しちゃったかも知れないし。
miRNA、siRNA の産生に必要な Dicer を卵子特異的にノックアウトすると、卵子形成そのものが停止してしまう。で、このノックアウト卵子では卵母細胞のすてべての転写物の10%を占めるレトロポゾンが3倍以上にも上昇している。
このことは、miRNA、siRNA がレトロポゾンの抑制に必要なことは示しているのだが、じゃ、元々、何のためにレトロポゾン領域が転写されるの???ってことの疑問には答えられない。
ってゆーか、「何のためにレトロポゾン領域が転写されるの?」って疑問を持つ事自体がナンセンスなのだ!!!
って考えれば「なんで?」なんて“意義”を探さなくても良くなる。
世の中の仕組みも、まさに、DNA 転写物が織り成すこんな仕組みに似ているって感じる。
特定の人の視点を軸にして眺めれば、なるほど、歴史(現在進行形も含めて)はストーリーになるけれど、それを眺める人が“無益”と評価してしまった登場人物は、登場の余地すらない。また、その“影響”を加味して、“アンサンブル”っていうか“ハーモニー”っていうか、全体の流れ(結果)の原因の一つとして“ストーリー”を作ることも出来ない。
トランスポゾンもレトロトランスポゾンもスモールRNAも知られていなかった時代では、それらの“役者”は、歴史上で“無益”と評価してしまった人の“影響”と同様に、物語の中に登場させてもらえなかった。それで生命科学の辻褄を合わせていた(合っていたと思うしかなかった)。重要性は計り知れないというのにである。
現代は、時間の流れが速まってきているって感じる。
インフラっていうか、人を取り巻く環境の変化について行けない世代が、まだ、世の中に生きているっていう現実が、それを、いっそう、切実にさせるのだ。
コンビニのオーナーが廃業する理由が、ATM や その他のIT機器のトラブルに対処出来ないからだという。医療業界では、レセプトオンライン請求についていけず、廃業を考えている診療所が8%もあるのだとか。。。。
ジェネレーションギャップなんて言葉は、すでに、古くなって、10年間隔でギャップが存在しているかのようだ。
本来なら、効果の判定まで“じっくりと待つ”必要がある“改革”まで、じっくりと待てずに、すぐさま“結果”を欲しがり、その“結果”が出る前であっても“間違った事”として“こき下ろす”ということが、当たり前の時代になってしまったって感じる。
しかも、そもそも、期待する結果は、ひとつの原因=改革に拠って達成出来るわけではないのに、、、である。(あたかも、、、癌という病気は一つの遺伝子が悪くなって起こるのだから、その悪くなった遺伝子を直せば、癌は治る・・・なんて幼稚な認識しかないが如くである。)
『坂の上の雲』は、今、通勤電車で読んでいる小説だ。なんどもエントリーのネタにさせてもらっているが、作者の価値観がかなり偏好しているって感じるのは、やっぱり、私の中に、上述のような“理系思考”があるからだって思う。
歴史を専門とする人にとっての“批評”は“結果論”以外はなく、また、因果というのは全て明らかに出来るっていう“幻想”を前提にしないと、自分達の居場所がなくなるという宿命を背負っているからなのだろう。
だから、結果に対して、都合の良い“原因”を選択して『ほらねっ!』ってやるんだけど、『じゃ、あんたの知らないトランスポゾン、レトロトランスポゾン、スモールRNAは、あんたの説明の何処に入れるんだよ!』って、妙な“つっこみ”を入れてしまう。実際、そんなことをしながら楽しんでいるわけだ。(経済をやっている人には“合成の誤謬 (fallacy of composition)”方面から突っ込んでいただけるかも)
ただ、やっぱり、私も、世間の毒気に当てられているせいか、早く結末が知りたい(ってゆーか、日露戦争の結果は周知のごとくなんだけど、小説の最後を知りたい)って感じている。文庫本で全8巻というのは、ボリュームがありすぎで、そのため、中だるみなのである。字面だけを追ってしまっている。(勿体無い!!)
ほとんど朝の電車でしか読まないので、読み始めてからまるまる2ヶ月も経つのに、やっと第5巻にたどり着いたところなのだ。1~3巻に登場していた正岡子規なんて、違う小説の登場人物だったっけ?になってしまっているし。。。。
あっ、このエントリーは“本”だから、『坂の上の雲』の面白さを伝えるわけだけど、私みたいな“理系”に偏った人間が読んでも、かなり、面白いといえる。
理系だからかもしれない・・・。
何処に面白さを感じるかは、人それぞれだと思うけど、私は、作者の文章の“説明好き”な所が、妙に“理系”っぽくって好きなのだ。見当違いの説明に違和感を感じたり、突っ込みを入れたりしてるんだけど、何の説明もない本だったりしたら、突っ込みすら入れられないんだからね。それに、半分は『なるほどぉ~』って事になってるし。
ついでながら、感じたまま書きっぱなしで一切説明のない“エッセイ”の類は、こういう理由でほとんど読まないのである。
つけっ放しのテレビを眺めている時間のように、無駄に時間をだらだらと費やしたくなったときは、エッセイを読むことはあるけれど。
というわけで、このエントリーで、一部の人には『なるほど、司馬遼太郎はおもしろそうだ』って感じていただけたものと思う。今まで、読んだ事のなかった人にもお勧めです。でもって右の Amazon アフィリエイトをポチっと・・・・・・・・
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