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2009年04月 アーカイブ

2009年04月04日

まず石を投げよ

20090404_stone.jpgネタバレ注意!   思い切りネタバレです。

ブログで書評を書くのは、もしかしたら初めてかもしれない。話の切り口に使うことはあっても。ネタバレを書いた記憶がないから。。。で、、、

久坂部 羊氏のこれまでの小説(『破裂』『廃用身』『無痛』)は、かなり鋭い切り口と、一気に読ませるストーリーがあり、面白く読んでた。そして、毎回、新作を期待してた。だけど、、、


ここでは小説の主題となる部分を書いてしまうので、これから、この小説を読もうと思っている人は以下を読まないほうが良い。

で、結論から言うと、専門的な内容を含んだ小説は、極めて“キワモノ”になりやすい性質を帯びている。私にとっては、Science 誌(September 26 2008, Vol.321)に掲載された論文を読んでしまってからこの小説を読んだので、かなり面白さが半減してしまったといえる。

以前にも【『心底惚れた女が、実は男だった』って感じ?】でネタにした論文なのだが、再掲したい。

ガンの転移を再考する(Rethinking Cancer Metastasis)

Science September 26 2008, Vol.321

ほとんどの人のガンによる死亡は、原発性のガン細胞が体の新しい部位に伝播して拡散する転移によって起きる。

途中の血流中を生き延び、新規の組織の環境に定着することを含め、転移性細胞は複雑な一連の段階をうまく切り抜けなければならないので、転移はガンの進行における遅い段階で起きるとこれまで考えられていた。

Podsypanina たち(p. 1841,8月28日オンライン出版、および、Kleinによる展望記事参照)によると、転移プロセスの開始は以前考えられていたよりもっと前かららしい。

正常なマウスの乳房細胞を遺伝子操作して、ガン遺伝子発現のタイミングを実験的に制御し、これをマウスの血流中に注入した。

驚いたことにガン遺伝子の発現がないときは、正常な乳房細胞は肺まで移動し最大16週間生存するが、ガン遺伝子が活性化するまでは攻撃的成長を開始しなかった。

このように腫瘍転移は、播種性の正常な (前悪性)細胞から発生し、遺伝的な変化が悪性になるまで臨床的には黙ってじっと待っている。

Seeding and Propagation of Untransformed Mouse Mammary Cells in the Lung
p. 1841-1844.
CANCER: The Metastasis Cascade
p. 1785-1787.


・医者はミスを隠蔽したがる。
・それを暴いて、世間に公表する。それがマスコミの使命

って事で、物語は展開していく・・・・

医師がミスを起こした時、その心理状態は?どういう行動をとる?と、医師に対して“ドッキリカメラ”のような巧妙な“仕掛け”を施し、その状況を隠し撮りするのだ。

舞台は健康診断だけを行うクリニック。検診を行う医師は、全てバイト。そのバイトの医師に、クリニックの看護師長から『半年前、胃の癌検診を受けた患者さんに、肝臓転移が判明した。家族から当時のレントゲン写真を貸して欲しいと頼まれたが、どうしましょうか?』と連絡が入る。

看護師長はマスコミに協力をしており、医師を“はめる”役割を担っている。

連絡を受けたバイト医師がクリニックにやってくる。ニセのカルテと共に、慣れた医師なら判読できる程度の癌が写ったニセのレントゲン写真をバイト医師に見せ、『当時の写真に癌は写っているんですか?もし、写っているとしたら、、、、見落とし、誤診ということになるのでしょうか?』と、白々しく語りかける。

作者は現役の医師なので、この辺の描写に破綻はない。10人が生贄になった。ただ、、、、、、

一人の医師が(この医師は、レントゲン写真の読影が苦手)、『癌なんて写ってないな』『まっ、写っていても、いなくても、すでに転移している場合もあるし・・・・』などと言い訳がましい言葉を並べて、写真の貸し出しを渋る場面がある。(こんなヤブ医者が検診やってるのか!と隠し撮りの別室で歓声が上がる)

作者は、世間一般の癌検診に対するコンセンサス、すなわち、『早期に発見できれば、癌は転移していない』『検診後、半年で他の臓器への転移が見つかったならば、検診時点で、早期癌を見落としたことになる』という認識を意識して筆を進めているのかもしれないが、この Science 誌 の論文にあるように『転移は細胞が癌化する前から起こっている』という事実の前では、読影が苦手な医師の“いいわけ”は、不自然な行為の描写であることが否定されるばかりでなく、最先端の知識を鑑みての見識となりうる事になり、この“仕掛け”の設定自体が、意味をなさなくなってしまう。

作品中で、番組製作プロデューサーの友達である看護師長に、『検診に意味はないのよ。検診を受けても受けなくても、死亡率に変わりはないんだから』と語らせているが、その『検診に意味はない』という自虐的ともとれる言葉も、この論文の後では、やりきれなさから発する言葉であろう意味合いがなくなってしまい、雰囲気を醸せなくなってしまう。

『癌検診に意味はない』
『検診を受けても受けなくても、助かる人は助かり死ぬ人は死ぬ。早期発見の意義は無いんだよ』
  ・
  ・
『うん、そうだけど、何か?』

って感じ。


この後、小説は、嵌められた医師の自殺へと展開する。

番組制作側は、この医師の自殺が自分達の責任ではないとしたい為に、互いにかばう言葉をかけあい、自分達に都合の良い事実だけを拾い上げ、逃避する行動をとりはじめる。

読み進めていけば、読者が、小説の中でマスコミが糾弾しようとしている医師の隠蔽体質が、そのままマスコミ自身に当てはまるのだと気づく仕掛けになっている。

結局、突き詰めると過誤を隠蔽したくなる心情は、『自分は可愛い』という人間の本能にかかわる部分に根ざす行動なので、誰にでもあり得る事だと気づかされる。。。。。


・・・・のだが、『転移は細胞が癌化する前から起こっている』のだから、検診の意義にネガテイブな結果の出る臨床研究があるのは当然で、検診の診断には意味は無い、、、、なら、転移して癌末期に陥った責任は、医師にはあり得ない事になる。

だから、責任を感じての自殺は、リアリティがなくなるのだ。


小説では、この医師の自殺は“癌検診の誤診”が原因ではない。


作者が書いている途中で、この Science 誌 の論文を読んだかどうか、あるいは、この基礎的な研究を途中で知ったのかどうかはわからないけど、もし、途中で知ったとしたら、この重たいテーマに対して、単なる辻褄あわせの結果のようなエンディングになってしまったのは、仕方ないのかもしれない。はっきりいって、あの展開は“肩透かし”以外の何物でもない。

久坂部 羊氏の小説は、『破裂』(★★★★)『廃用身』(★★★)『無痛』(★★★) と最後まで読ませるので、ポイントは高いのだが、『まず石を投げよ』はエンディングが釈然としないのだ。

医師の自殺は、マスコミの“策略”に嵌められたことを原因とし、隠蔽体質は、なにも医師だけの専売特許ではなく、国民の一人一人が持ち合わせている本能なのだという所に持ち込んで、物議を醸して欲しかった。

ただ、そのシナリオを推し進めるには、理論的な基盤を『早期に発見できれば、癌は転移していない』『検診後、半年で他の臓器への転移が見つかったならば、検診時点で、早期癌を見落としたことになる』とすると、全てが根底から覆されちゃう・・・・可能性がある。。。。


テーマは素晴らしいのだが、消化しきれていない・・・そんな印象を持った小説である。(肩透かしなエンディングは、ブロガーのエチケットととして書かないでおくことにする・・・・・ので、感謝するように!!ワハハハハ)

2009年04月14日

海の挽歌

20090414_natural_selection.jpg動物行動学者のコンラート・ローレンツらがノーベル医学・生理学賞を受賞したのが1973年だ。ローレンツらが研究を始めるまでは動物行動学などという領域すらなかったのだから、ノーベル賞は当然なのだが、、、、

で、ローレンツの名前を知らない人でも、ガン・カモ類のヒナが孵化した後、数分の間に見た動くものを親と思って何処までもついていく“刷り込み”という現象があることは知っているだろう。(分子生物学での“刷り込み”とは意味が違う)

ノーベル賞を同時受賞したニコ・ティンバーゲンのセグロカモメのヒナが親鳥にエサをねだるシーンで、その行動は親鳥のくちばしの先にある“赤い斑点”によって誘発される、しかも、“赤い斑点”があれば、親鳥の格好をしてないものに対しても反応する。逆に親鳥のくちばしの先端にある“赤い斑点”を隠してしまうと、ヒナはエサをねだる行動をしないという研究も有名だ。


動物行動学が学問として世に登場するまで、“人間”は、身の回りの現象や動物の行動にに高尚な寓意を持たせてきた。

「やっぱり、子は親を頼るもんだ」
「あんな鳥でも、親だってわかってるんだよなぁ」

みたいな・・・・・。

ローレンツらは、動物の行動に人間が考えているようなヒューマニズムは存在しないということを科学的に明らかにしたわけだが、私、個人的には、それは、人間の行動にも拡張できるんじゃないかと思っている。こんなことは、世が世なら、大っぴらに言えたもんじゃなかっただろう。つい最近までヨーロッパでは、教会の目が怖くて“進化論”も語れなかったんだから。(あっ!今でも教会の力は強い・・・・?)

人間まで拡張できる・・・・・っていうのは、最近、読み終えた阿刀田 高氏の【海の挽歌】を読んでいる時にも、チラチラと感じていて、阿刀田 高氏の場合は、動物行動学を知ってか知らずか、どちらにしても、野生の感?で、こういうことを知っているんじゃないかと思わせる。最近読んだ中で、真逆なのは司馬遼太郎氏だ。司馬氏の場合は、人の行動に過大に意味を持たせ、過大に影響があるとしていると感じる。もっとも、司馬氏の生きた時代は、動物行動学など知る由の無いのだから、仕方ないのだが・・・・。


【海の挽歌】は、kmoto さんから教えてもらった本だ。カルタゴに思いを馳せる主人公の人生のエピソードを綴っている物語だ。

この小説の中で、「もし、ポエニ戦争でローマが負けていたら、世の中はどうなったんだろうか?」「もし、ハンニバルがいなかったら・・・・」と。
それに対して、「でも、ハンニバルがいなくても、ローマが負けても、似たような人が現れ、ローマがヨーロッパを統治しなくても、キリスト教は広まり、現代に繋がるんじゃない」と。

私も、全く、同意見である。

人生には分岐点があり、「あの時、別の道を選んでいたら、今の自分は・・・」なんて思うシーンでも、「でも、結局、どの道を選んでも、自分の能力に変わりはないんだし、似たような生活をしているんだろう・・・」と。

これも、全く、同意見である。

単純に考えたって、1億5千年前に、とても凶暴な一匹のティラノサウルスが居なかったら・・・・・とか、そのティラノサウルスに食い殺されなかった一匹の哺乳類の祖先が・・・・とか、そんなものに地球環境の経過と生命の進化が左右されるはずも無いことは、小学生だってわかるはず。

さらに、とてつもなく影響力を持った個体が出現しなくたって、そのマイナス方向のベクトルが居なくなるだけで、帳尻は合うわけで、とてつもなく影響力を持った個体が出現する事が、すなわち、その反対の力を生むことになるわけで・・・・・

小泉元首相が居たから、反小泉が居るわけで、、、、、小泉さんが居なかったら、反小泉も居ないわけで、、、、、。事を起こす前に、反勢力があるから、依怙地になるわけで、、、、、

東郷平八郎が居なくても、野木希典がいなくても、秋山真之がいなくても、日露戦争に負けていても、右や左、前や後ろへの多少のブレはあるのだろうけど、今の我々の生活に、大きな変化はないのだろう。

一家の大黒柱が戦死しなかったら、、、っていうけど、交通事故で死ぬかもしれないし、仕事で失敗して自殺するかもしれないし、、、、、それは、東郷平八郎や野木希典や秋山真之の存在とは関係のない話で、、、、、


でも、現代には、「あの時、あっちの道を選んでいたら、今とは違っていただろう」なんて思っている人は、意外に多い。その為に、いかがわしい商売の餌食なることも多々ある。

小説の世界では、「この人がいたから、今の世の中がある」と言わせたほうが、断然、面白いのだが、その世界観を現実と区別できない人達が、まわりに振り回され、世の中に不満をぶちまける人達になるのだろう。

生半可な知識を振りかざし、「政治的判断はこうあるべき」なんて言うのは滑稽以外の何物でもないのだが、かわいそうな人でもある。周りの影響を受けやすいという意味で。影響を受けやすい人は、人の影響力を過大に評価するのだろう。たぶん、これって生まれつき・・・・・。個性の多様化は種にとって必要不可欠だから、これでいいんだろうけど。。。


さて、今回は、【海の挽歌】をネタに書いてるんだけど、阿刀田 高氏の作品は、どれも、フワフワっと頼りない感じがするんだけれど、これって、もしかしたら、【海辺のカフカ】を読んだときに感じたものと共通するかもしれない。

ロシア文学の古典くらいは読んでおかなきゃって事で読んでみた【カラマーゾフの兄弟】とは対極を為すんじゃないかな。

村上 春樹氏や阿刀田 高氏は、“野生の感”が発達しているっていうか、人間の行動を素直に受け取っている。考えすぎた“理屈”をこじつけていない。
 
 
 
ところで、“種の保存”という言葉を聞いたことのない人はいないんじゃないかな?いくら、理科の授業を聞いていなかったとしても。

しかし、この種の保存という“群淘汰”の考え方が間違いであることを知っている人は、驚くほど少ない。

では、正しい淘汰とは何なのか?

それは、遺伝子淘汰である。

リチャード・ドーキンスの【利己的な遺伝子】は知っていても、これが、生物進化において、群淘汰が間違いで遺伝子淘汰が正解であると言っている事すら知っている人は少ない。利己的な遺伝子を持っているから、「人間は“利己的なんだ”」とか、爆笑モノの勘違いを平気でしている人が、非常に多いのだ。


さて、群淘汰では「動物は種の保存の為に行動する」とか「動物の持っている性質は、種の保存に有利なものである」としている。これが何故、誤りなのかわからない人は自分で勉強してもらうとして、これに関する面白いエピソードがあるので紹介する。

背景として、霊長類以外の生物では遺伝子淘汰は比較的早くから受け入れられていた(1980年代の半ば)時代、霊長類の行動に関するある研究会で強固に群淘汰を主張している研究者がいた。それに対し、遺伝子淘汰論者の昆虫学者から、「しかし、その行動を行う行為者にとっては、それはどんな利益があるのか?」という質問が出た。そのとき、その群淘汰論者の反応は、「私は、君のように利益だ損失だという卑しい考え方はしない」というものだった。。。。。。(長谷川眞理子著【進化生物学への道】より)


生物にとっての行動は、それが自分にとって利益があるのかどうか?の一つなのだ。究極には。


欧米で、動物の行動・生態に遺伝子淘汰の考えがコンセンサスを得た時、まだ、日本では、その行動に“意味”、“意義”をもたせたい人達が沢山いたのだ。

「やっぱり、子は親を頼るもんだ」
「あんな鳥でも、親だってわかってるんだよなぁ」

みたいな・・・・・。

ただし、コンラート・ローレンツ自身は、バリバリの群淘汰論者だった。けれど、その時代には、まだ、遺伝子淘汰という考え方がなかったのだから仕方がない。
 
 
 
人間の行動に、意味・意義を付けないと、小説は面白くならない。だから、過去の小説家達は、その方法をとったのだろう。

その方面の代表者って事(他にあまり知らないし)で、司馬遼太郎氏を例に挙げるんだけど、別にそれを批判しているわけじゃない。コンラート・ローレンツが群淘汰論者だったことを批判しないようにね。問題は、その取り巻き連中なのだ。司馬遼太郎氏の『坂の上の雲』を読んで、著者自身に興味がわき、プロフィール調べてみると、氏の著作は、現代人が持つべき感覚のスタンダードみたいな評価をしている人もいて、気持ち悪くなったのだ。これが、氏を代表者として例に挙げる理由でもある。
 
 
 
生物学に、遺伝子という“言語”が加わって、格段に未来が予測できるようになった。(そういう意味では、医学は、まだ祈祷の域を出ていない。博物学のレベルだ)

歴史が未来予測のツールになる為には、遺伝子という“言語”は必須だ。

歴史に登場した人物の(その時の一般庶民も含め) DNA シーケンス及びメチル化の状態とともに事実の記述が為されて、初めて、人類は「歴史から学べる」ようになるのだろう。(ハンニバルやスキピオの DNA シーケンス及びメチル化の状態を知るすべは無いんだけど)

悲しいかな、現代の歴史学(史学)は、未来を予測するという点において、生物学が博物学だった頃のレベルだと言わざるを得ない。

現代の政治(行政や立法、司法)に口を挟む根拠として、歴史の知識、しかも、一小説家(司馬遼太郎氏)の調べ上げた事を“現代人が持つべき感覚のスタンダード”なんて扱いにしていることに対して、違和感を感じるなという方が、無理ってもんなのだ。少なくとも私にとっては。

戦争を人間が地球上の生物の一種として生まれてしまったからには避けようが無い行為の一つであると認識せずに、軍部の暴走だとかなんとか忌み嫌うだけではそれを避けうる妙案は浮かばない(例え、日本が太平洋戦争に突入するその軍部の暴走が第1次大戦後のドイツに対するベルサイユ条約が引き金だったと解釈していたとしても。新渡戸稲造が頑張っても、所詮、勝てば官軍。勝たなきゃ・・・って感じるのが遺伝子なのだから)。それは、サルの集団内で発生する“子殺し”を群淘汰で「個体数が増えすぎるのを抑える行動だ」なんて解釈をするのと同じなのだ。
 
 
 
そういうわけで、ここ、数年、村上 春樹氏がノーベル文学賞の候補に挙がっているのも、氏の文章に、遺伝子の存在を感じさせるものがあるからなのか・・・・なんて事を思っている。

最近の流行っていうのかな、、、、文学に遺伝子を持ち込むと、ドストエフスキーや司馬遼太郎は過去のもになり、村上 春樹氏のような人間の描写になる、、人間賛歌は、遺伝子とは対極を為すからねぇ。

なにしろ、人間は遺伝子の乗り物なんだから・・・・・by Clinton Richard Dawkins

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