人間の体の中にあって、なんだろうなぁ?、、、ってもの、けっこうある。盲腸とか左心耳とか・・・進化の名残なのか、それとも何か機能を担っているのか??
進化の名残といえば、耳のなかには、進化の名残がはっきりと証明されている。Malleus:槌骨、Incus:砧骨、Stapes:鐙骨 がそれ。ヒトが魚だった頃には“あご”の骨として使われていたものが、陸に上がって、“聴覚”を発達させる必要に迫られて、、、、、って、聴覚を発達させられたから、現在がある・・・これが正しいんだけど、、、、。
人間は、結果に理由が欲しいんだよねぇ・・・
水中では、振動が肌(触覚)で感知できる、、、、陸上では空気の振動を確実に拾い上げるには、触覚では役不足、、、、、だ!(なのか?)
相対的に同等なら、、、、捕食者も被食者も、同様に振動に鈍いままなら、外界の変化(動きは振動になる)に敏感になる(音を拾う)必要はないことになる。。。。
みんなが、他より優位に立とうとしなかったら・・・・平和だよねっ!出会いがしらが、捕食者と被食者になる分かれ道。これはしょうがない。
この辺が、共産主義、社会主義の人達の論拠なんだろう。
でも、ちょっと、まってよ!!競争で他より優位に立とう(結果的に優位になる変異)としなかったら、、、、ヒトまで進化してないじゃん!!
ご先祖様(ヒトじゃないけど)が、みんなで仲良く・・・やってたら俺たち、いないじゃん!!
ええっ?この辺、どう説明すんのよ?共産主義、社会主義の人達!!競争する(資本主義)のは、生物の本質であり、本態なんだよ。
(同様に互恵的利他行動=宗教の本質であり本態。この辺のバランスが日本人には欠落している?)
と、理論的に破綻している思想を、いじめるのはかわいそうだから、話は変えよう。
昨日、職場で、文学の効用を話し合っていた。(すごいでしょ!この高尚な職場環境!!なんちゃって!!)
その事が、頭の片隅に残っていたのだろう。今朝の通勤電車の中では、『フランダースの犬』の事を考えていた。
フランダースの犬は、知っていると思うが、とても可哀想な運命をたどる。私も、娘を寝かしつける為、絵本を読んであげることがあるのだが、うかつにも、胸がつまってしまい、声が出なくなることがある。
でも、みんなは、こんな話は知らないんじゃないかな?
フランダースの犬に踏み殺された蟻の話。それから、フランダースの犬に食い殺された野うさぎ・野ねずみの物語を。
貧しかったネロは、満足にエサをあげられなかった。だから、パトラッシュは、自力で空腹を満たすしかなかった。(半野良状態ですね!)
蟻や野うさぎ、野ねずみを主人公にお話を作ると、パトラッシェは、さながらギリシャ神話“オデュッセイア”の単眼巨人ポリュペモスの様相を呈する。
パトラッシェが静かに死んでいく様を見届け、蟻や野うさぎ、野ねずみ達は、祝宴を開くというのが、この話の大団円だ。
NHKドラマ スペシャルドラマ「坂の上の雲」が始まる。とても楽しみにしていたドラマだ。原作者の司馬遼太郎氏は、一角の歴史家だ。歴史の登場人物たちの印象を一変させる筆力があるのだから。氏の作品から歴史を好きになった人は多いといわれている。
だが、私の勘違いであれば良いのだが、氏の歴史観が“客観的に正しい事実”であると思っている人が多いのではないだろうか?氏は戦争体験者で、戦争が嫌いらしい。氏が小説を書くに当たって集める資料は膨大だという。。。だが、膨大さがバイアスを否定するという保証はない。
というより、氏の書く小説に限らず、物語に主人公が登場した時点で、主観的になるのは避けられないのだ。氏の小説にしても、主人公の目を通して当時を俯瞰してても、それは、作者の主観から離れられない。
主観を廃するというのなら、「坂の上の雲」の登場人物に関わる全ての人を主人公にして物語を作らねばならないだろう。
「フランダースの犬」を蟻や野うさぎ、野ねずみの側から見たようにね。
評論家は、小説の分類に“私小説”という言葉を使う。単に表現方法が一人称で進んでいくという事なのだろうが、言葉だけが独り歩きした結果、“私小説”でなければ“客観的”な内容になると勘違いしていく事になったのてはないだろうか?
司馬氏の歴史観が、もし自虐的な歴史観に影響を与えているとしたら、それは、大変、哀しい事だ。
外交という、高度に感情を抑えなければならない舞台に、感情を惹起することが目的の小説から歴史的な認識を得るなどいう“愚”は犯してはならない。
中国や韓国は外交を優位に進める為に、国民を煽り洗脳し感情を惹起させている。彼らと同レベルに立つ事は、自らを貶める事になるわけだから。
いや、貶めるというよりは、私流に言えば『頭が悪い』と言うことになる。
事実の認識に“感情”を伴わせて“印象”を操作する、お昼の“テレビショッピング”に騙されるのと同じレベルなんだからね。
じゃ、お前は、司馬遼太郎や「坂の上の雲」が嫌いなのか?って聞きたくなるかもしれない?
私の中では、小説はあくまで小説、文学はあくまで文学、感情が惹起される事を楽しむだけだ。そして、これは、人生の半分を占めるくらい、大事な事だと思っている。小説や物語で幸せな気分になったり、悲しんだり、主人公に感情移入したりすることが、不必要なわけが無い。
だが、事実の認識に、感情が伴う事はあってはならないと思っている。
しかるに、感情に印象(『それは重症だ』とか『そんなの軽いよ』とか)を操作されるような医療は、サイエンスではないと思っているので、事実を事実として受け止めなければと、しょっちゅう書いているわけだ。
弱者が嫌いなわけではなく、弱者が“文学的な弱者=かわいそう”を装い、横暴な振る舞いをすることが嫌いなのだ。
客観性を失わせる“文学”をサイエンスに持ち込む事は“禁忌”にすべきだ。
ここで、昨日の文学の効用の無駄話に戻るわけだが、史学科出身の kmoto 氏は、最近の文学部の在り方を嘆いている。文学が、科学を取り込み始めているって。。。
私も、激しく同感した。文学は、エビデンスなんて必要ない。理論的に破綻しているとか、そんな事を考えなくても良い。他人を説得できなくても良い。それは、個人が感じる事なのだから。
私の場合は、フランダースの犬に涙できなくなったら、、、、人間、お仕舞いじゃない?って感じるだけ。私にとっては、それが大事!って事。
同様に、秋山好古、、、カッコイイ・・・・、こんな“生き様”憧れるぅ・・・って。ほんとは、歴史の中では、盲腸とか左心耳だったかも知れないけど・・・ねっ!