親が子を思うほど、子は親を思っていない
昨日、妻の幼なじみの友人達が我が家に遊びに来た。
私が居たんじゃ出来ない話もあるだろうと気を使った訳でもないのだが、前夜、サーバのメンテで寝るのが遅くなったせいもあって、娘と昼寝してしまった。で、妻は友達と思いっきり話しが出来たみたいだ。
今朝、朝食を取りながら妻が薮からぼうに『後妻さんて大変だよね』っていうのだ。
なんでも、一人は後妻さんとして子供のある男性と結婚し、もう一人は自分の姉が同様だという。そして、二人とも、子供とのコミュニケーションで悩んでいるのだと。
私、『ふーーん、でも、親が子供を思うほど、子は親を思わないんだよね。だって、それが生物の本能だもん』と。
さらに、追い討ちを、、『実の親子なら、多少の気遣いもあって子供は親を顧みることもあるだろうけど、血の繋がりも無ければ露骨なんじゃないの』って。
我ながら、朝から、、、台無しの受け答えである。
でも、人間以外の生物で親の世話をする動物はいない。
自分の子孫に愛情を注ぐのは本能だけど、逆は無い。これが真実だ。たぶん、気づいていない人はいないだろう。親の心子知らずだ。
本能ならば、行動に理由は要らない。子育て、子供に注ぐ愛情に理由は要らない。
でも、本能じゃなければ、、、、
---どこまで、やればいいんだろう?---
高齢化社会で、何処まで老人の面倒をみたら良いのか誰にも解らない。本心(本能)でそう思わないことを“心の負担”に感じ、自己嫌悪してしまう為、子供の世代をないがしろにしても、老人に情熱を注いでしまう事を善しとしてしまう。そして『ここまでやるのは、こういう理由があるからだ』と行動に理由が必要とすることからも、本心じゃないことが伺われる。
だから、何処までやれば良いのか悩んでしまう。子供の場合なら、『こりゃ、過保護になっちゃう』って、愛情を注ぐのも自分でブレーキをかけるもんだが、親の世話なんて元々『なんじゃ、そりゃぁぁぁぁ??』って本能があるのを抑制して、その感情は人道的じゃないって自己否定から入るから、何処までやったら良いのかがわかんなくなっている。そして、それを押し付ける人が出現し、悲惨な家庭が後を断たない。善意の押し付けだから、押し付けてる本人に罪の意識はない。
そろそろ、そういう遺伝子に刷り込まれている“感情の隆起”にも向き合わなきゃいけないんじゃないかなぁ。
だって、母親にタリウムを盛って、実験したくなっちゃった子供の“精神状態”を『あーでもない、こーでもない』って考えてみたって、もともと、子供が親に抱く感情なんて薄っぺらなんだから、しょうがないよ。(注1)
自分の子供だけは、私がこんなに愛情を注いで育てたんだから、自分達(親)にも同等の愛情を持って接してくれる筈だ・・・・なんて幻想は持たない方が良い。
誰かが『それを言っちゃお終いよ』って事を言わないから、日本に山積している色々な問題もどんどん解決の方向性がずれていっちゃう。
その為に、私がこのブログで『それ言っちゃお終いよ』ってのを言い続けるとしよう。
さてさて
こんな事を書くのは、私の受け答えが元で朝から夫婦喧嘩・・・・って訳ではないので、ご安心を。私の妻は、私の“動物的な”考えに洗脳?されてるので、喧嘩になることはなく、『そーだよねぇ!わかるわかる』って人なのだ。
今、私は教養としての信仰、、、つまり、神話からはじまってユダヤ教、キリスト教、イスラム教やアジアの宗教をせっせと“お勉強”しているわけだが、神父さんやお坊さんが、私の言うことを聞いたら卒倒しちゃうだろう。
神話や宗教って生物学と対極に位置するものだから、私には心から理解することは絶対有り得ないし信じようとも思わないが、人の行動に多大な影響を与えているものだから、知識として知らずにはいられないのだ。
生物の本能に逆らって行動することが、すなわち人間としての存在意義だ。だから、その行動の為の“理由”がいっぱい詰め込まれているのが、神話や聖書、聖典だと思っている。
エクスキューズの宝庫なんだけど、散々、たっぷりと、神の気まぐれがあるから面白い。
そして、宗教や信仰とは無縁の人が多いと思っている日本人自身でさえ、どっぷりと神や宗教の考えに染まっていると見ることも出来るんじゃないかな。それを“道徳”という言い人もいるだろうけどね。
注1:環境が性格・人格形成に与える影響と遺伝子の相互作用を決定的に勘違いしている“テレビに出る精神科医(注2)”が多すぎるのも原因。って言うか精神分析と分子生物学が対極に位置している為、精神分析医は分子生物学を知らない事が原因だ。
環境因子は遺伝子発現のスイッチを押すが、押す場所は個人によって違う。また、押すか押さないかも個人差がある。また、発現した遺伝子が一つだけで性格・人格が形成される訳じゃなく、その発現したタンパク質が、別の遺伝子の発現を制御し、それがまた別の・・・とカスケード的に全体としてトータルの遺伝子発現プロフィールとなって性格・人格が形成される。
劣悪な環境から良い人悪い人の発生率と良好な環境からの良い人悪い人の発生率を比べてみれば、差が無いことは一目瞭然。じゃなければ、とんびは鷹を産まないし、総領の甚六が全てではない事は明らか。(“良い人悪い人”は犯罪の発生件数とは違う事を注意)
精神分析は、自分の心の有り様に“理由を与えてくれる”事だけに存在意義がある。子供の頃の生活環境が現在の・・・トラウマってやつだ。
本人の納得が出来れば、それでいいわけで、的は当たっていても外れていても結果が良ければ全てよしという状況だけで用いられるべきものだ。
それが、いつのまにか、そういう環境があると、こういう性格・人格が形成されるというように、予測する科学のような振る舞いをしちゃったことに“大きな間違い”があるのだ。
強いて言えば、宗教をサイエンスにしちゃうようなものだ。
注2:これは、視聴者のウケを狙って番組のシナリオ通りに喋らされているという一面もあるので、非難ばかりは出来ない。みんながウスウス感じていることに“お墨付きを与える権威”として機能しているのだ。
それに、ホンモノの精神科医は“精神分析”なんてしないので、精神科医として責めるのは酷だ。
先日の新聞の3面に、気になる記事があった。