今回の新潟地震では『もっと早く医療を受けられれば死なずに済んだものを・・・』と手一杯を理由に受診を断った病院が槍玉に挙がっている。マスコミは“槍玉”とまで明らかな非難はしていないが主旨はそれであり、言葉を濁したりトリアージを訴える解説者もいるけど、やっぱりどれもコレも、現実を直視せず、理想的な事を言うに終始している。(受け入れたとして、手一杯で処置を施せず、もしくは施しても死んでしまったら、マスコミは非難することだろう。目に見えている。病院にしてみれば、受け入れるも地獄、受け入れずも地獄ってわけだ)
前回のエントリーでも指摘しているが、外傷を負った場合でも、助かるものは助かるがダメなものはダメなんだということを“意図的に”言うことはしない。言い辛いのは解るが、そんなことでは問題は解決しない。(問題を解決したくないなら、言う必要は無いけど)
そもそも、一般人(とマスコミ)の思い描くトリアージは“とにかく重傷が最優先”なのではないだろうか?本当のトリアージは、助かりそうも無いものは“見捨てる”のだ。助かる“見込みのある重傷が最優先”だと言うことだ。
心配停止で運び込まれ、助かるこみこの無い人に30分も蘇生術を施していたらどうなるのか?
救急救命の技術を持った医師の数には限りがあるのだ!!
普段から、このような議論の場を作り、助かりそうも無いものは“見捨てる”というトリアージにコンセンサスを得ておくのが危機管理だというのなら、コメンテーターの話の振り方にも納得できるものもあるが、“とにかく重傷が最優先”と言うだけなら、素人は引っ込んでろ!と言いたい。
薄っぺらな『生活密着』とか言ってる政党や政治家はこんな時には何をしてるのだろう?東京に同様の地震がおきた時に想定される負傷者の数は、このような危機管理がマニュアル化されていなければ、混乱は避けられない。どのみち、全ての人が納得のいく結果なんてありえないんだから・・・。
多分、こう言うと、トリアージの段階で“貴方は死ぬ”と見捨てられる人の気持ちにもなってみろとか、本当にその判断は“正しい”のか?なんて言う人もいるだろう。薄っぺらな正義感の持ち主に多そうだが、それは、平時においてのみ問題にすべきものだ。
ところで、トリアージの段階で運命が決まるって事を考えていたら、渡辺淳一の『光と影』を思い出してしまった。運命を分けるものなんて、ほんの些細なことだ。この小説では二人の患者に違う手術をした医師の判断の根拠なんてものは存在しない。そして、その後の幸・不幸は一つの価値観では量れない。まさに運命なのだ。
ある調査によると、なにがあっても『病院で死にたい』人は半数に上ると言う。この理由は色々あるのだろうけど、死んだ人の家族にしてみれば『私達は最善を尽くした』という気持ちで身内の死を受け入れたいという気持ちは否定できない。
とすれば、死を迎える方だって、残される家族に、自分の死に対して最善を尽くせず死に至らしめたとの思い・心の負担を無くしてあげたいと思うこともありえる筈だ。
これに気づいた時、『(病院は拒否しないで)とりあえず、廊下にでも転がしといてくれたら良いのに』と、昨日の床屋のおばさんが言ってた言葉がわかった。結果はどうあれ、受け入れてもらうだけで“慰められ、救われ、癒される”のだ。マスコミや政治家が言うほどには、ほとんどの国民は生き死に(結果)に拘っていないのだ。中には極端な患者(と家族)もいるが圧倒的に拘っている人は少なく、マスコミによって拘っている人・不満がある人・弱者が作られているのだと理解できた。
こうなると、日本の病院というところは、助かる・助からないは超越した存在になる。いや、病院という所、すなわち現代医療は、全ての病気・外傷をコントロール出来る存在であると勘違いさせておいた方が良い。そう、全知全能の神が在る宗教のように。(誤解していた方が幸せだということ)
日本には宗教が存在しない。いや、宗教は存在するけど“信仰心”が存在しない。道徳観や倫理観も“宗教”の教えるところで、日本人のベースは神道や儒教ということになるのだが、これらのものを“宗教”と捉える人は少ない。まぁ、タバコのポイ捨てやスクールゾーンでの暴走など、日本人から道徳観や倫理観なるものが欠落しつつあるのは事実だが。
共産主義思想にとっては宗教的な(個人的な)思想は有害無益だから、とことん、これを排除しようとする。武闘派だろうが穏健派だろうが、共産主義や社会主義とはそういうことになる。最初から崇高で高尚で志が高い思想なんだから、一般庶民はアレコレ考えるな!と最終的にはこうなる“運命”を内包した思想だと私は思っている。
宗教の無い日本で、人々が死を受け入れる為には、現代医療・医学は限界を持たず、全能であった方が良いと、ここで、一つの考え方に気づいたわけだが、、、
宗教が嫌いな政党や政治家は、『誰でも気軽に病院にアクセスできる』『平等に医療を受けられる』『とりあえず病院に行って診てもらう事が出来る。鼻水垂れただけでも』を至上のものとするなら、医療が宗教化するのを認めなきゃならない。心の拠り所とするならって事だ。
宗教化を認めないというのであれば、医療に限界があることを“言葉にして”国民に説明する義務が在ると思う。『(病院に)行っても結果は同じなんだから、手一杯で受け入れてもらえなかった事をうらみなさんなよ』と。
政権政党は、何かが起きれば、本当のことを言わなければならない。記者会見でマスコミが突っ込んでいる下らない“説明責任”の事じゃない。『出来ないものは出来ない』『やらなきゃならない事はやらなきゃならない』と言う事だ。本当の事を言うから、国民には“受け”が悪い。そこを突いて“奇麗事”を選挙対策にする野党のやり方は、、、、武士道に反する・・・と思うのだが。(最近、妻が“文楽”に嵌っていて色々とレクチャーしてくれるので、武士の生き方に共感している私なのです。)
そして、マスコミは自分達こそが真実を報道しないくせに、どっちつかずのポジションでイイコチャンぶり、『私こそが解っている』みたいに問題点を指摘するなっ!!てーの。