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2007年09月 アーカイブ

2007年09月01日

うつ病は過剰診断されているか?

20070901_sumototabaco.jpg“病気になる事でメリットがある事”がある限り、うつ病に限らず他の疾患も含めて過剰診断されている事は否めない。まして、過剰診断する事が医療提供側の経済的なメリットにも繋がる“構造的な”問題点を内包しつづける限り。。。。

朝青龍の“疲労骨折”は彼と診断した医師にとってメリットがあるから病気とする事が可能になったわけで、誰でもやっている事こそ問題にすべきであるのに、一般大衆を敵にするのが怖いのか、マスコミが変に捻じ曲げ、問題点をすり替え、視聴率確保に走ったが為に、本来、問題にされるべき人物がマスクされるという由々しき事態にも陥っている。(インチキ診断書を書いてもらうことが、一般大衆なら許されて、横綱が許されないと言う理由は、私には考えられない。朝青龍を責めるなら、同様の人も全て責められるべきだ。しかし、そんな堅い事いってばっかりじゃ、世の中、円滑に回らないから、朝青龍事件がこんなに大きく扱われるのかが、私には理解できないのだ)


さて、先日の臨月を迎えた妊婦のたらいまわしが報道されたが、諸悪の根源はマスコミにあるということをマスコミ自身が認識しない限り、このような医療の問題点は解決するわけが無い。

うまくいって当たり前、最善を尽くしても結果が想定外だったら非難されるという感覚を国民に植え付けたのは、マスコミ以外の何者でもない。


昨日、駅のホームの喫煙場所以外で喫煙している人を注意したら、その人は私を睨みつけ、吸っていたたばこを足元に投げ捨てた。電車を待つ為に2列に並んでいた私の隣にいた人なので注意したわけだが、あまりの幼稚な対応に思わず吹き出してしまった。

しかし、吹き出したのは、この幼稚な人間ばかりが理由ではなく、その日の読売新聞朝刊の記事を思い出してしまったからでもある。

その記事は、『最近、マナーが悪くなったと感じる人が9割にものぼる』という主旨のものだ。

私が、マナー違反した喫煙者の態度に腹を立て、《まわし蹴り》にでもすれば、きっとマスコミは私を“行き過ぎた悪者”扱いするんだろうなぁと感じたからである。マスコミのスタンスは、とにかく“手を出したものは悪い”だ。言葉による暴力は自分達の専売特許だからそんなものは鼻から認めていないし、多分、煙草の煙(副流煙)も暴力とは考えないだろう。

私はその喫煙者の隣に並んでいたので、もろに副流煙を浴びる事になっていた。私なりにその状況を解釈すれば、先に手を出したのは相手だ。『やめろ』を聞かなければ応戦するしかない。従って私の《まわし蹴り》は罪に問われるべきもんじゃないが私の理屈である。だけど、マスコミはそうは問屋を卸してはくれないだろう。その《副流煙》が塩素ガスであったなら、私は即座に死んでいるのだが、《副流煙》で癌死することに対しては甘いらしい。

そして、ホームに煙草ポイ捨て男のような精神的に未熟な人間を作り出しているのも、このようなマスコミのスタンスだ。

本来なら、マナー違反を注意されたら小さくなって『すみません』の一言を放つのが常識的な精神構造だと思うが、逆切れして相手を威嚇するような憎らしい態度を取ったとしても、手さえ出さなきゃ済まされると言う事をマスコミから学んでしまっていると考えられるからだ。家庭での教育に原因を求めるのがマスコミの常套手段だが、マスコミ自身の“悪影響”は完璧に無視している。

アンケートでは、【その行動を注意する人が減った】ともあった。だけど、口で言ってわからない奴をわからせるには、体に訴えるしかない。そう、ぶん殴るのだ。それを『野蛮で凶暴な行為』にすり替え、非難する事で“正義の味方”を演じてきたツケが【注意されると逆切れする】人を助長した事は明らかである。(教師が萎縮し学校が崩壊するのも同様の理由)

【その行動を注意する人が減った】原因はマスコミにあると言わざるを得ないのだが、そうなった原因は他にあるとでも言いたげにアンケート結果を公表する態度は滑稽でしかない。


さて、タイトルの【うつ病は過剰診断されているか?】だが、この BMJ に掲載された議論は医学的な面に則して行われているのだが(当たり前だけど)、『診断の見落としは生命を脅かすうつ病の治療の機会を逃すことになる可能性』との懸念はマスコミの格好の餌食にもなりかねないという事も指摘しておこう。結果が想定外でも非難され、何もしなくても非難されるのである。

なんにしても、今の日本は、すべてマスコミの倫理観に振り回されていると言っても過言ではないようだ。

提供:Medscape

うつ病の過剰診断は正常な精神衛生状態を「病気」として治療するリスクがあるが、診断の見落としは有害になりうるとして議論が対立

Marlene Busko
Medscape Medical News

【8月24日】うつ病の過剰診断は正常な精神衛生状態を「病気」として治療するリスクがある一方、診断の見落としは生命を脅かすうつ病の治療の機会を逃すことになる可能性がある。これらの対立する見解は『BMJ』8月18日号のコラム「Head to Head」における同話題に関する議論でさらに論じられている。


賛成側の見解「うつ病は過剰に診断されている」

ニューサウスウエールズ大学(オーストラリア、ランドウィック)のGordon Parker, MDはこの件について賛成側に立ち、憂うつになることは正常であると主張している。Parker博士の指摘によれば、教師242名を対象に試験を行ったところ、被験者の95%が気分の大幅な落ち込み感を経験したと報告し、15年間にわたり同被験者集団の79%が「精神疾患の診断・統計マニュアル(DSM)」の大うつ病、小うつ病、または亜症候群性うつ病の基準を満たしたという。

Parker博士はうつ病の過剰診断は、DSM-IIIにおける1980年の変更に由来すると主張している。この変更は「大」うつ病および「小」うつ病という診断カテゴリーを導入したものであった。「大うつ病」という用語の重々しさが臨床家にとってためらいも与えたが、実際の記述的基準の境界は甘く設定されており、それよりはるかに少なくて小さい症状があれば「小うつ病」と診断された、とParker博士は述べている。この診断モデルを拡大して「亜症候群性または亜臨床うつ病」が含まれるようにすると、広く蔓延しているはるかに重症度の低い状態も包括することになる。

信頼性のある診断モデルがないことに加えて、期待の高まりを背景にうつ病治療薬がその真の有効性を超えて宣伝・販売されていることも現在の診断過剰の一因となっているとParker博士は主張している。

現行のうつ病の分類には、「正常な人間の苦悩に薬剤を処方し、うつ病のすべての発現に治療が必要と考える」リスクがあると、Parker博士は警告している。うつ症状の重症度が低い人に誤ったうつ病判定をすると、期待させておきながら効果のない不適切な治療を行うことにつながりかねない、とParker博士は述べている。

「うつ病は、常識的な是正がされるまで、非特異的で包括的な診断であり続けるだろう」とParker博士は結論している。


反対側の見解「うつ病は過剰に診断されていない」

この議論のもう一方の側についているシドニー大学のIan Hickie, MDは、「治療の増加によって恩恵が得られていることを証明でき、その費用効果が高ければ、うつ病は過剰診断されているとは言えない。このことは証明されており、健康に生きている人が多く、我々にはもっと多数の人を治療するだけの余力がある」と反論している。

うつ病治療の増加は自殺を減少させ生産性を向上させるとHickie博士は説明している。過去15年間にわたるうつ病診断率の上昇により、スティグマが減少し、身体的健康の転帰が改善され、薬物およびアルコールの乱用が減少し、受診のリスクとベネフィットへの大衆の理解が広まったほか、「ストレス、神経衰弱、および思春期不安という差別的レッテル」も放棄された。

1990年代のより安全な抗うつ剤の宣伝は、うつ病に対してより幅広い関心を目覚めさせた、とHickie博士は述べている。そして、新しい抗うつ剤の使用はしばしば、あまり望ましくない鎮静剤やより危険な古い抗うつ剤の処方を減らす結果につながると付け加える。

英国、オーストラリア、ニュージーランドにおける診療の大規模な監査からは、うつ病が過剰診断されているという考えは裏付けられていないし、実際に、大うつ病の診断は主に何度も診察を受けたり、治療を求めたり、自傷行為を試みたりする人たちに限定されているとHickie博士は述べている。

大うつ病の認識率が低ければ、臨床医が早期介入して疾患経過を改善する機会を逃すことになるほか、自殺統計から示されているような真の不利益が、診断や治療を受けないことで発生することになる、と同博士は警告している。

Parker博士は、Australia's Black Dog Instituteの常任理事であり、薬剤諮問委員会のメンバーであるとともに、製薬会社により開催された会議で講演を行っている。Hickie博士は、Australian national depression initiativeのbeyoudblueの最高責任者および臨床アドバイザーを務めた。また、Parker博士は、うつ病および不安の発見および管理に関する医療専門家のためのプロジェクトならびに政府、地域機関、製薬会社の提携による援助を受けた団体のリーダーを務めている。さらに、Parter博士は、nefazodone、duloxetineなどの特定の抗うつ剤に関して製薬会社が召集した専門的諮問委員会のメンバーでもある。


BMJ. 2007;335:328-329.

Medscape Medical News 2007. (C) 2007 Medscape

2007年09月07日

注意せず、髪の毛つかんで連れ出す 傷害容疑の巡査長

20070907_police.jpgこの巡査長、酔ってたとしても当然の事をしたまでだと思うし、アメリカじゃ、こんなクソガキはその場で射殺じゃないの!?

このネタを“後出し”で出してきた朝日新聞は、『やっぱねぇ~』という内容だ。何があっても“暴力”はイカンという路線でアピールしたいらしい。しかし、最後の【少年の母親(36)は「ちょっとした悪ふざけはあったが、殴るのは行き過ぎ」と話した。】は逆効果だよね。この親ありてこの子ありって、誰しもが思うよ。手さえ出さなきゃ“悪者”にならないっていう“家庭内教育”を施してるもん。

母親が『よくぞ、我がバカ息子を殴ってくれました』って言ってんなら、大変、良い話になるんだけどねぇ~。

さて、そのニュースの内容だけど、その前に[時事通信社]の報道では、この巡査長の行動を支持する電話やメールが2000件以上あり、不支持はたった4件だった事を伝えている。当然、朝日新聞はこんな事には触れもせず、購読者のミスリードをねらっているわけだ。

注意せず、髪の毛つかんで連れ出す 傷害容疑の巡査長


2007年09月06日22時39分 朝日新聞

 横浜市旭区の相鉄本線鶴ケ峰駅前で4日夜、高校2年の少年(16)に対する傷害容疑で神奈川県警大和署の巡査長小磯慶洋容疑者(33)が逮捕された事件で、「小磯容疑者が少年を注意しようとした」という県警の当初の説明と違い、小磯容疑者がいきなり少年の髪の毛をつかんで駅の外に連れ出し、顔を平手で殴っていたことが6日、県警の調べで分かった。

 監察官室によると、少年は電車内で拳銃型ライターを構え、駅員らから注意を受けてライターをかばんにしまった。同駅で下車した少年が駅の階段を下りる途中、酒を飲んだ帰りの小磯容疑者が「ちょっと待て」と少年の髪の毛をつかんで路上まで連れて行き、顔を殴ったという。

 少年は「いきなり殴られて怖かった。ライターの柄で鼻も殴られた」という。一方、県警は「巡査長はライターを取り上げた時、鼻にあたったと供述した」と説明した。

 県警によると、小磯容疑者は近くにいた男性が仲裁に入った後も顔を殴り、少年によると、仲裁の男性が「殴ることはない」と言うと、「こういうガキは殴らないとわからない」と言ったという。

 県警の当初の発表を受け、6日夕までに小磯容疑者の行動を支持したり少年を中傷したりする電子メールや電話が県警本部などに約1000件寄せられたという。

  少年の母親(36)は「ちょっとした悪ふざけはあったが、殴るのは行き過ぎ」と話した。


3~4日前の NHK クローズアップ現代では、『キレる大人』が紹介?されており、電車内でぺちゃくちゃと電話しまくっていたOLを注意したおじさんが矢面に立たされていた。そのOLは注意された事に対して逆ギレして悪態をついた為、おじさんが『なんだ、その態度は!』と怒鳴った訳だが、その行為こそが『キレる大人』だと解説していたのだ。
おじさんは、電車から降りる時にそのOLを突き飛ばしたのだが、その事を理由に、その前のOLを注意し怒鳴った事まで“イケナイ事”のように伝えているのだ。OLは突き飛ばされて当然のような言葉をおじさんに浴びせているのにである。『あんたの怒鳴り声のほうが、よっぽど回りの迷惑だ』と。


この逆ギレOLに“つける薬”は存在しない。唯一の処方箋は“往復ビンタ”だ。


マスコミが煽り続けた近年の(戦後の?)“手さえ出さなきゃ悪者になる事は無い”みたいな風潮は“暴力”の定義があいまいなままで“横行”している為か、大変、目に余る。(それが故、頭を“ゴツン”、お尻をビタンとやって叱ることすら“暴力”とされ否定されてしまっている)

電車内で拳銃モドキを振り回した少年は、本当にほんの悪ふざけだったかも知れないが、この行為に心底恐怖した人もいるはずだ。そう、“死の恐怖”を。一時でも“死の恐怖”を感じさせた事ってのは、たとえ手を出していなくっても十分に“暴力”以上だと(私の感覚では)思うのだが、マスコミにかかると悪い事ですらないらしい。(このクソガキは、いくら殴られたからと言って“死の恐怖”までは感じてないハズ。こんなのが殴られたっていうだけで“お咎め無し”なんてのは本末転倒である)


古い話だが、身体的に手を出さなきゃ言葉でどんなに苛めても許されるというマスコミの論法が、松岡大臣を自殺に追い込み、JR福知山線事故では、鬼の首を取ったかのような報道陣のJR職員を罵倒する方向に向かわせた。「犯罪はリンチでなく裁判で裁かれるべき」とはマスコミの常套句だが、自分達がリンチしている自覚がない??(マスコミの執拗な追求は度を越しリンチと言わざるを得ないケースも多いと私は感じてる)

マスコミは、『ペンは剣より強し』を盾に、手さえ出さなきゃ何をやっても許されるなんて言うつもりだろうが、勘違いも甚だしい。

そのつけが、このようなクソガキや勘違いOLが街を闊歩する事を許してしまったのだ。そんな時代を作ったのがマスコミなんだということを自覚して欲しいぞ。

このクソガキが殴られて“大怪我”でもしたなら巡査長の行為も“行き過ぎ”と責められざるを得ないが、もともとの“大怪我”の原因を作ったのはこの“クソガキ”だと言う事を、ペンをもって十分にわからせ、懲らしめてもらいたいものだ。
 
 
 
先日、ある小説(タイトル失念)を読んだのだか、久しぶりに喉のつかえが取れるような気持ちの良い感覚を味わった。その内容は、、、

舞台はアメリカ。世間では紳士と評価される病院の診療部長が、実は養女に日常的に性的な暴行を加えている事実から話は始まる。この娘は中米の貧しい国でストリートチルドレンをしていたのだが、ひょんな事から、子供の出来ない夫妻に引き取られ、大変な恩義を感じていた。

この夫妻の住む高級住宅街の家の隣に住んでいた少年(この少女に恋心を抱いている)が少女の理由不明な苦悩を心配し、話をする中で、何気なくこの性的虐待が明らかになり、少年自身も良く知る養父を殺す事を決意する。

完全犯罪を計画するが、当然、子供の犯罪だから簡単にばれてしまい、少年は直ぐに逮捕され裁判にかけられることになる。アメリカでは日本の少年法に該当する法律は無く、少年であっても一級殺人二級殺人なら、成人と同じ刑に服さねばならない。

少年はその娘が事件の表に出ないようにする為に一切口をつぐんでしまうのだが、裁判を通じてこの被害者の養女に対する性的虐待が暴露されていく。陪審員達は審判を協議する席で、はじめほとんどがこの少年を“有罪”としていた。しかし、『十二人の怒れる男』じゃないけれど、“有罪”とするには余りにも少年に対して同情を禁じえないし、少ない人達の主張『殺される原因を作ったのは被害者本人だ』に心を動かされ、最後には全員一致でこの少年を“無罪”とするストーリーである。

無罪になったからと言って、この少年は大手を振って町を歩るけるわけじゃない。少年の父親も殺された被害者と同僚の医師だったが、辞職し、さらにはアメリカからも去らねばならなくなる。そして、その陪審員の一人から少年宛に手紙が届く。殺した事実は一生消えない。その事を重く受け止め背負って生きて欲しいと。


日本とアメリカの司法制度はかなり違うところがあるにせよ、杓子定規な刑法に“人情”の入り込む隙を、この陪審員制度は作っている。日本の司法制度も裁判員に移行するが、手さえ出さなきゃ何やってもOKという風潮に釘をさせると良いのだが。。。例えば、この巡査長が殴った少年が怪我をしたとして裁判になったとしても、状況を考えれば“無罪”であると。そして、逆に少年の行為を戒めることが出来るようになると良いと思っている。

2007年09月10日

喫煙奨励につながる映画俳優の喫煙

20070910_JESUS_cigarette.jpg太陽にほえろをリアルタイムで見ていた私は、松田優作扮するジーパン刑事が張り込んでいた車の中から『あっ、ちくしょぉ』と叫び、窓から吸っていた煙草を殴り捨てて追撃を開始するシーンに“憧れ”ちゃってた。

さらには、レッド・ゼッペリンのギタリスト、ジミー・ペイジがくわえ煙草で愛用のレスポールを弾く姿(写真)に『俺も、絶対真似する』と心に誓ったもんである。

映画カサブランカのボギーにしても、煙草が良く似合うし。。。

でも、、、、

キムタクにセクハラまがいの行為をされても、間違っても“脂ぎったオヤジ”と同様の生理的嫌悪を覚える女性はいないだろう。

同じ事が、煙草にも、、、、

ジーパン刑事、ジミー・ペイジ、ハンフリー・ボガードがかっこよかったから、煙草という小物が“効いて”いたわけで、車寅次郎がカッコつけて吸ってもぜんぜん・・・な事は明らかだと。そして、犯罪ドラマでは、憎き連続強姦殺人魔が犯行を終えたあと煙草を吸っていたら、煙草に対して“嫌悪感”を覚えるかもしれない。でも、描き方によっちゃ性的興奮を覚えるのも“異常”というわけじゃないとは思うし、心のどこかでこういった犯罪を犯したい願望は誰にでもあるのかもしれないという意見もあるだろう。が、《プリズン・ブレイク》の“セオドア・バッグウェル(通称ティーバッグ)”に共感するヤツは、なかなかいるもんじゃないだろ。こいつが煙草を吸ってたら、、、、。

引用文にある『映画俳優が喫煙している姿を見るだけで、喫煙に対する印象は好転する』というのは、一定の条件のもとでだと思うのだが、いかがだろうか?

〔米オハイオ州クリーブランド〕ダートマス大学(ニューハンプシャー州ハノーバー)のSonya Dal Cin博士は、映画俳優が喫煙している姿を見るだけで、喫煙に対する印象は好転することが新たな心理テストであらためて示されたとPsychological Science(2007; 18: 559-563)に発表した。


潜在的連合テストで確認

 今回の研究は、視聴者に喫煙の映像を流すことが喫煙に対する肯定的なメッセージを送ることになる機序を調べた。これまでも映画俳優による喫煙が喫煙奨励につながることを示す研究がいくつか報告されている。

 今回の研究対象は男子大学生52例で、半数が喫煙者であった。筆頭研究者のDal Cin博士らは同じ映画から場面の異なるカットを抜粋し、研究に参加した学生にそれぞれのカットを見てもらった。1 つ目のカットは主人公が喫煙しているシーン。別のカットは主人公が喫煙していないシーン。

 その後、潜在的連合テスト(IAT)を各対象者に実施した。IATは社会心理学で広く用いられている心理テストで、喫煙、薬物乱用などの社会問題など特定のテーマについて、参加者の潜在的信念を読み取るもの。IATについての詳細はhttps://implicit.harvard.edu/implicit/に紹介されている。

 同博士は「IATは人が真に考えていることをより正確に捉えられるよう構築されたもの。IATの特徴は正確な反応を示す意思がない、あるいは示すことができない傾向にある人に対しても、その傾向をうまく回避することである」と説明している。

 同博士は「IATにより導かれた結果は、喫煙者も非喫煙者も映画の主人公に共感し、主人公が喫煙をしていた場合は、明らかに喫煙と自分をより強く結び付けていた」と述べ、「これは映画のなかの喫煙が、喫煙に対する観客の潜在意識に影響を与えている証拠である」と結論している。

 一方、共同研究者でワーテルロー大学(カナダ・ワーテルロー)心理学のGeoffrey Fong教授は「この知見は、映画を見た非喫煙者が突然喫煙を始めるということではなく、彼らの喫煙に対する意識がわずかながらも否定的ではなくなり、寛容的になるということである」と述べている。

20070910_holy_shit.jpgさて、テロ特措法の延長に政治生命をかけた安倍さんだが、これを反対している小沢さんは、大衆の心理を良く心得ていると関心する。

正論で言えば、民主党副代表の前原誠司氏の判断が正しいにも関わらず、大衆は『坊主憎くけりゃ袈裟まで憎い』で動く事を利用し、その他もろもろの“事件”で安倍憎し(不甲斐ない)のレッテルを貼られてしまった事とあわせて、テロ特措法を延長する事があたかも“悪い事”のような印象操作を行って、政権奪取を目論んでいるあたり、やっぱり只者ではない。

ハーバード大学のサイトにある潜在的連合テスト(IAT)の【国家('日本-米国' IAT)】をやってみたのだが、脈絡がないとの前提をいくらわかっていても、国家と善悪のサイドを同じくされたテストにはその選択をする行為自体に“うしろめたさ”を感じてしまったりして、つくづく、脳梁が繋がっているなぁと実感される。

物事に善悪の区別をつけ、自分の判断の根拠にしたいという思考は、子供には当たり前の事だ。子育てをしてみて実感する事でもある。そして、世の中、善悪だけでは判断できない事が多いのを成長とともに知るわけだが、精神的に幼稚な人格では判断を善悪に依存する事が多い。(大人が穢れていて子供が純粋無垢だと言う事だが、英語の純粋無垢=Innocent に肯定的な意味はない事も知ってなければならないだろう。少なくとも外交をする上では)

日本人に多いと思われる、この幼稚な人格を巧みに利用しているところは、これを(大衆に)気づかせないで行えば有能な政治家と言われるのだろうが、こうも見え見えでは、なんと言っていいのか、よく分からなくなってくる。(更に深い考えなのか、それとも何も考えてないのか?)


しかし、救いは今朝のズームイン・スーパーの数字だ。

大臣の任命責任を総理に押し付けるよりは、大臣個人の問題だとする人が50%を辛うじて超えていた事だ。“任命責任”という言葉の“責任”だけが一人歩きし、大臣の不祥事に総理の責任があるかのような“印象操作”に引っかからない人が半分はいるって事だからね。

でも、キムタクが総理大臣になってたとしたら、小沢さんの心理戦による参院戦の結果も違ったものになってたんだろうな。やっぱり、政治家は“見栄え”も意識した方が良い。政治信条を貫く為には!!

注:“HOLY SHIT!!”とは、とにかく“やばい”って奴を見た時、発する言葉。

2007年09月14日

マスコミに抹殺された首相

20070914_UN.jpg限りなく誘導に近い“質問”による“世論調査”に意味があるのかどうかは別として、これを伝統芸能の如くかたくなに守っている朝日新聞に、是非、聞きたい事がある。(ズームイン・スーパーで辛坊さんが呆れながら“誘導質問”って言っていたのが、笑った)

『何故、テロ特措法延長に反対するのか?』

素朴な疑問である。

まぁ、朝日新聞や朝日テレビなど、このグループの報道姿勢には素朴な疑問だらけなのは誰もが認めるところだと思うけど、この体質は何処からきたのか?


国連が認めていない・・・・、これって何の根拠になるんだろうか?(安全保障は“口”だけじゃ無理だし、奇麗事じゃないのはわかっている筈なのに・・・)

キリスト教(資本主義社会)とイスラム教の対立って“軸”をはっきり出してくれれば、アメリカのとってのロジックが絶対的な“正義”でないって事は、私にも理解できる。イスラムにとってのロジックでは、テロ(と資本主義社会が定義している)行為は“止むに止まれぬ”事であって、“座して死を待つ”を潔しとしないからの“結果”であろうと、考えられるからである。だからこそ、中立な国連って理屈なのだろうが、国連は第二次大戦の戦勝国の組織であり、中国やロシアも入っているから(宗教の無いこの国は、アングラで武器を製造しイスラム世界がお客さんだ)、この問題に関しては“だからこそ”は“国連”には繋がらないと思うのだが・・・。

そして当然、降りかかる火の粉を払いのけなきゃ、、、自分の身を守る為に“闘う”事は誰にでも認められている“基本的な権利”である。だから“闘う”。これを否定できる人もいないだろう。

ただ、ややこしいのが1500年以上も前からの怨恨を引きずっている、この一点に尽きる。6年遡って相手の行為を非難すれば、その3年前の出来事を持ち出され、それに対しては10年前の出来事で、、、、際限が無い。(だから、ドーキンスは宗教が悪い『神は妄想である』と言ってるのだが・・・)


事実を“事実を炙り出す為の証拠”に利用するという事も、このような問題の解決方法としては馴染まない。これは、その問題がどこの宗教間であっても、国家間であっても、民族間であっても同様だろう。(学者が学問的にやるならまだしも、政治家や報道がやるべきではない)

例えば、Aさんが歩いてきた道に屍体が転がっていた。その日、その道はAさんしか通らなかった。だから、Aさんがその人を殺したんだ・・・という“証明”にその屍体を用いるって事を指す。これは単純な例だが、このような密室殺人事件にはトリックが隠されて、そして一つの事象に二つ以上のシナリオが隠されているのが“常”だというように、屍体があるからといってAさんが犯人とは限らないということだ。新鮮な事件ならまだしも、これが、過去の事になると、想定可能なすべての可能性の検証すら不可能になるから、ますます、話をややこしくする訳だ。

誰でも知っている“南京大虐殺”事件を例にとれば、事実は“屍体”が沢山あったということ(だけ)だ(この屍体すらなかったとする人達は話にならないけど)。日本軍が通った後だから、日本軍が殺したものとされている。この段階で、すでに全ての“屍体”が日本軍によるものかどうかはわからないと言う事である。

屍体の数は、報道により桁違いの報告があり、もし、(朝日新聞の)多い方を取るにせよ、中国共産党による粛清の“結果”の処理に“利用”されたかもしれず、また、“虐殺”という表現を使うのであれば、全く武装しない無抵抗の“市民”が殺された場合に使うべきで、抵抗したり、或いは市民を装った軍事抵抗(たとえ竹やりであっても、丸腰の日本兵を殺す事は出来る)があれば、それは“戦時下における不幸な犠牲”と表現すべきところだろう。

本物の無抵抗な市民と装った中国武装兵士は“モザイク状”に存在していたはずで、どちらの側もこれを証明する事は不可能になる。従って“事実を事実の解釈の証拠”にする事には無理が生じるわけだ。

それは置いといて、日本軍は“侵略”したのだから、どっちにせよ“正義”はないというロジックも、『背に腹は代えられない』であり、切羽詰った状況で座して死を待てない状況下では“弱肉強食”を否定できる人はいないのではないか?


20070914_IF_JESUS_RETURNS.jpgというわけで、原始的な一神教の世界(ユダヤ教)の世界からキリスト教が生まれ、イスラム教が生まれ、その頃から引きずっている問題に十字軍遠征という決定打が加わり、(いや個人的な問題と言うなら、各地での小競り合いの方が影響力が大きいだろう)誰にも解決できない問題に発展してしまったのが、日本でのイラク特措法、テロ特措法に関わっている事を考慮しないでの世論調査は笑止千番ではないのか?争いのネタにしても、その歴史の当事者たちには、いつでも大義名分が存在したのだから、どちらが“正義”でどちらが“悪”なんてのは、誰にも判断のつくことじゃない訳だし。


小アジアでは、ちょっと前までイスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒が穏やかに仲良く暮らしていたらしい。イスラム教徒の夫にキリスト教徒の妻などは珍しくはなかったのだそうだ。それが、今、この夫婦には、危機が訪れている。
夫の親戚筋から、『従兄弟を殺した憎きキリスト教徒の女と、何故、離婚しないんだ?』と。イスラエルとパレスチナ(ユダヤ教とイスラム教)でも同様らしい。彼らには日本人には理解不能な宗教という帰属意識があるのだ。

神からユダヤ人に与えられた筈のカナンの地の証拠は、共通の聖書である旧約聖書に書いてある。しかし、それ以前にその地に住んでいた人は居たとも書いてある。しばらく(ヨセフの時からモーセまで)カナンを留守にして(エジプトに行ってた)、その間にも、カナンの地には他の人たちが住んでおり、それを奪ったとも書いてある。

『それが事実である』と言い切れる遡れる限界は?誰が断定できるのだろうか?(イエスの存在すら、まともに証明できないのに!)

タブーなんだろうけど、タブーに触れないでテロ特措法は語れないんじゃないのか?

タブーに触れないのは、それこそ、朝青龍の問題に似ている。“疲労骨折”の詐病問題を突っ込みすぎると診断した医師のところまで行ってしまう。これは、マスコミにとってはタブーなんだろう。

繰り返すけど、国連と日本国憲法というキーワードだけで“テロ特措法”に対して世論調査を実施するのは、余りにも浅慮で軽率な気がしてならないのだが・・・。まして、誘導的な質問を用いて世論調査する朝日新聞の意図は??


・・・小一時間、問い詰めたい!

2007年09月19日

45分仕事したら15分休める職場とは?

20070919_worker.jpgいいですねぇ!小沢さん。仕事サボりまくり、職務怠慢、不正やり放題で年金処理を混乱に陥れたって、庇ってくれる心強い親分!!

労働者の味方!ばんざぁ~いっ。

で、子飼いの子分のバックアップがあるから、選挙だって怖くない!





何も知らない善良な市民は、ワイドショー的な聞こえの良いマニフェストにころっと騙される。。。それを利用するのは、、、

しゅうぐ【衆愚】
多くのおろか者。
しゅうぐ‐せいじ(‥セイヂ)【衆愚政治】 自覚のない無知な民衆によって行われる政治。紀元前二世紀のギリシアの歴史家ポリビオスが、堕落した民主政治をさして用いた語。


Led Zeppelin の演奏シーンを見たくて検索してたら、偶然にも Stanley Jordan が play する "Stairway to Heaven" を探し当てたのだが、同時に“小沢一郎”とか“社会保険庁”とか、、、検索すると、面白い映像が hit するんだよねぇ!

というわけで、今回のネタは、“小沢一郎”なんだけど、、、、


私、弘兼憲史氏の劇画『加治隆介の議』を読んでた時、その中で登場する“渦上三郎”に小沢一郎を重ねて見ていた。そして、青臭い加治隆介を諌める姿に、本物の政治家の姿を見てた。ようするに渦上三郎は好きだったわけだ。もちろん、どんな時にも正論を貫き通す加治隆介は大好きだけど、冷静な渦上三郎は別な意味で私に“認めさせる”存在だった。

そして、その当時、小沢一郎は自民党にいたのだ。いつかは自民党を背負って立ち、自民党総裁=首相になる、ある意味“熱い”男だと思っていたのだが、いつのまにか、自民党からフェードアウトしてしまい、ケツの穴の小さな“無責任”な発言と“衆愚”を操る狡猾な“野党魂”へと変身していたのだ。

瑣末でワイドショー受けの良いテーマばかりを選んで政権与党を吊るし上げる姿は、見ていて情けなくなる。政治家たるものの大きな仕事は、国防・外交・教育だろうが!テロ特措法延長をネタにするなんざぁ、片玉痛いわ!!もとい、片腹痛いわ!

しかし、前にも書いたけど、とにかく“衆愚”を利用してでも何でも政権を奪取し、その理想とする政治を思う存分やるっていうのなら、期待しないではないのだが、、、、私の複雑な想いは、昔好きだった政治家の醜態が許せない!そんな醜い姿が晒されるのが見ていられない!頑張って欲しい!叱咤激励!可愛さあまって憎さ100倍!

でも、“衆愚”の為に政権を取って政治生命を短くするくらいなら、万年野党でその役割を演じていれば何年だって政治家として生き長らえる、、、今の民主党には確実な組織票(労働組合)があるんだから、、、政策なんてどうでもいいんだから、、、、なんて見えなくも無い。

我々の業界でも、どんなに“熱い”人でさえ、年を取ると“既得権”にしがみ付くようになってしまうのと同じなんだろうか・・・・・。

いやだねぇ~。

2007年09月28日

チェッカーゲームの場合は引き分け

20070928_chess.jpgScience 誌の September 14, 2007, Vol.317 に、面白い論文が掲載されている。コンピュータを使ったチェスとチェッカーの試合、人工頭脳の研究についてだ。

その中で、『チェスの場合は探索空間が膨大で、最速のコンピュータでも解くには地質学的な時間が必要であるが・・・・』と、“地質学的な時間”って言葉に、つい笑ってしまった。

チェッカーゲームの場合は引き分け(A No-Win Solution for Checkers)

Science September 14, 2007, Vol.317

コンピュータ科学者は人工頭脳の研究には、伝統的にチェスのようなゲームを利用してきた。

もっと易しい探索空間の小さなゲームの場合は、スタート位置からコンピュータでしらみつぶしに空間を調べることで完全な解が得られる。

チェスの場合は探索空間が膨大で、最速のコンピュータでも解くには地質学的な時間が必要であるが、他のゲームの場合は難しいけれど取り組み可能な挑戦課題となる。

Schaeffer たち(p. 1518, Choによる7月19日のニュース記事参照)は、チェッカーゲームの解について報告している。

もし、黒が先手であれば、対戦相手が間違いを犯さなかった場合、ゲームは引き分けになる。

この完全な解の解析は1989年に始まり、数十台のコンピュータが必要であった。(Ej,hE,nk)

Checkers Is Solved
p. 1518-1522.


現代のスーパーコンピュータをもってしてもチェスの場合は“地質学的な時間”がかかるが、もっと易しい探索空間の小さなゲーム、すなわちチェスの場合はスタート位置からコンピュータでしらみつぶしに空間を調べることで完全な解が得られるってのが、凄い!(多分、オセロゲームもそうなんだろう)

《もし、黒が先手であれば、対戦相手が間違いを犯さなかった場合、ゲームは引き分けになる。》ってのが、逆にゲームへの興味を失わせそうだけど。。。。


政治的な駆け引きを“チェッカーゲーム”のような印象をもたせることで完全なる“解”があるかのように勘違いさせ、誰にでも解るかのように“世論調査”のような形で大衆にも“政治に参加”させようとするマスコミの姿勢には、いつも違和感を感じている。

誰それが大臣になると『こうなる』とか、派閥が関わると『こうなる』とかは序の口で、日本は議員内閣制(天皇制)なのに、それがあたかも直接民主制(大統領制)かのように首相個人の“支持率”なんて数字を出しての番組作りは何をかいわんやである。(首相は議員が選ぶんだっちゅーの。政治のプロである議員が選ぶんだから、国民の支持は関係ない。議員はこのように難しい政治を解りやすく説明し、具体的に何をするかの意思表示をする事によって国民から選ばれるんだから、民意はその段階で活きてる)

政治は、ゲームに喩えりゃ“チェス”であり“将棋”だろう!

それぞれの“駒”の動きを正確にコンピュータにインプットしたとして、全体の方向を見極めるには、それこそ“地質学的な時間”がかかる。

現実の社会では、そんなに時間がかけられないから、その判断・決断は、行き当たりばったりで妥協の性格を帯び、“結果”で評価される事になるわけだ。(『議論を尽くしてない』なんていう野党の理由は、だからこそ、笑っちゃうんだよね。“地質学的な時間”の議論なんて出来るわけが無いんだから)

このように、政治は結果で評価されるべきものなのに、まだ始まったばかりの内閣であっても“こき下ろす”姿勢ってのは、サイエンスの面から見ても“おかしい”と言わざるを得ないし、単純だと思わせる事自体が政治(それこそゲーム)への興味を無くさせてるんじゃないのか。


話は変わるが、今朝の朝刊一面は、どこもミャンマーで殉職した記者の話だ。殉職は生命の危険がある職業では当たり前の事だと思うから、警察官や自衛官が殉職しても一面トップにしないんだと思ってたけど、身内の事となると違うらしい。

そして、その殉職を“政治的利用”しかねない勢いだ。


軍事政権を非難する声は、それこそ2000年前のローマの時代からあった。

Cedant arma togae,concedat laurea laudi.
武器はトーガ(平服)に道を譲り、(将軍の)月桂冠は(市民の)賞賛に勝らず。

これは、キケロの残した言葉だが、当時は“嘲笑”の対象だったらしい。

人間、生きる本能があるから、だれだって死にたくない。でも、闘わなければやがて死が訪れるなら、闘う。こんな事を言って失笑を買ったのは、キケロは周辺蛮族を平定する為に、前線で戦ったことは一度も無かったのが理由だろう。

ポンペイウスが言ったのなら、説得力もあったかもしれないけど。


しかし、まぁ、本日は別の引用からマスコミの頓珍漢も“効用がある”って事に言及し、日頃のマスコミへの誹謗中傷?を許してもらうとするか?!(爆笑)


それはマスコミの行動を“生物の多様性”というフィルターを通してみた場合に得られる結果だ。

テイラーメイドのToll様受容体(Tailor-Made Toll- Like Receptor)

Science September 14, 2007, Vol.317

実験室レベルに基づいた免疫学では、昆虫から哺乳類にいたる生得性の免疫受容体に関する多くの役割が明らかになった。

しかしながら、このような受容体が、どの程度感染からヒトを守っているのだろうか?

Zhangたち(p.1522)は、ヒトの一次免疫不全症に関して報告している。

その報告は、他の病原体に関して何等の明白な影響を与えることなく、単一の特異的なウイルス感染からの防御におけるToll様受容体(TLR)に関する特異的な役割を示している。

単純ヘルペスウイルス(HSV)はTLR3の変異誘発遺伝子を持つ子供に脳炎を引き起こすが、TLR3は通常中枢神経系や免疫系の樹状細胞におけるウイルス核酸への抗ウイルス性のインターフェロン応答を調節している。

生得的なヒトの免疫貯蔵庫におけるTLR3の維持はウイルス感染によってもたらされているのかもしれない。

これらの結果は、他の似たような狭い宿主-病原体の相互作用も、また共進化した可能性を示唆している。

TLR3 Deficiency in Patients with Herpes Simplex Encephalitis
p. 1522-1527.


イキナリ話が飛ぶが、例えば上のような研究成果が、医療系ドラマを面白くなくすのかもしれない。

子供がインフルエンザに罹患する。
行動異常を起こす。(脳・神経炎の可能性)
病院に連れて行く。
手遅れになる。
『もっと早く来ていたら・・・・』と言われる。

でも、科学の進歩は、こんなドラマを一蹴する。

ウイルス感染で脳炎を起こすのは、遺伝子の個性(ウイルス耐性の個性から見れば“異常”となるが、この多型が現存しているからには、他のメリットも考えられる。例えば自閉症は天才に繋がる・・・とか)だから、病院に早く来ようと遅くなろうと、運命は、ほぼ決まっている。ひどい言い方だが、なまじ呼吸だけを続ける状態で“生かして”しまったら・・・。この領域では、医療は存在しない。あるのは個人的な“生命観”だ。

だから、この手のドラマは“医療系”ではなく“人文系”“宗教系”“哲学系”となっていくのだろう。

そして、遺伝的な多様性がヒトでも存在しているってことは、次の論文にとどめをさす。

種内および種間での多様性の必要性(Diversity Needed Within and Among Species)

Science September 14, 2007, Vol.317

生物多様性の鍵となる2つの要素は、種内部の遺伝的多様性と生態学的コミュニティーおよび生態系における種の多様性である。

これら2つの要素は、通常は2つの多様性の水準間での可能な相互作用にはほとんど注意を払われることなく別々に研究されていた。

LankauとStraussは、双方の水準での多様性の維持を可能にするフィードバックループの存在の経験的証拠を提示している(p. 1561)。

Brassica nigra(アブラナ属nigra)のアレロケミカル(allelochemica(他感物質):異なる種の生物にとって有害な物質)な形質における遺伝的変異は、この種と他の競合種の共存にとって必要である。

同時に、B. nigraにおける遺伝的変異は、複数の競合種がそのコミュニティー内に存在していた時にのみ維持されていた。

幾つかのB. nigra遺伝子型は他の種に対しては強い競争者であったが、種内の競争者に対しては弱かった。

こうした結果の示す重要なメッセージは、自然な生息地における種多様性の保存のためには、種内の遺伝的多様性を維持する機構の保存も必要とするかもしれないということである。

Mutual Feedbacks Maintain Both Genetic and Species Diversity in a Plant Community
p. 1561-1563.


要するに、一つの遺伝子型に着目した場合、それが単一の種内ではデメリットととして働いていたとしても、多種が共存する環境ではメリットとして働く事かあるというものである。

例えば“早熟”のうなぎは食餌獲得の面では仲間内の生存競争に勝てるが、捕食されるって面からみると真っ先に見つかって食べられてしまう。この事を考えても、成長速度すら“多様性”があるほうが種の保存に有利だとわかるし、これを餌としている生物にとっても、一度に供給される量は少なくても、後から後から継続的に供給される方が種が生き長らえるとも考えられるわけだ。

病気と病気への耐性に目を転じれば、価値観が単一だと、それは“不幸”になるけど、価値観が多用なら、ウイルス感染で脳炎を起こす遺伝子も、まんざら“不幸”とは言えなくなる(おいおい、当事者の気持ちを考えろよ!って声も聞こえそうだけど、、、、)。
 
 
 
今、私はマスコミのなんにでも反対しこき下ろす姿に“効用”は見出せ無いと断じているのだが、政治そのものがシミュレーションしようとしても“地質学的な時間”がかかってしまう為に、行き当たりばったりで対応している現実に対しては、当然、間違った判断・選択も含まれるわけだ。結果として、『ほーら、言わんこっちゃない』と(結果的に反対した事が正しかった)。

こういう事があるから、時の判断・選択する人たちにとって、無謀な選択をさせない抑止力になっているとも考えられる。だから、マスコミ(と野党)の“なんでも反対”にも存在意義があるとも言える。なんでも反対を“考え方の多様性”と捉えてもいいし。

というわけで、ある意味、マスコミの行動は正しいところもあり、理性的にはマスコミ批判を控えなければならない・・・・・。


でも、やっぱり、感情的にはキケロみたいに“口だけ”のヤツは嫌いだな。

2007年09月29日

『へぇ~っ』て思ったこと

20070929_evodevo.jpg■まずは、身近なところから。“親知らず”が生える人と生えない人の違いは、、、、、キーワードは『エボデボ』だったと。

エボデボの入門書として最適であり、一番のお奨めなのが『シマウマの縞 蝶の模様』なのだが、この本では“親知らず”には触れていなかった。

『エボデボ』・・・・聞いたことのない人のほうが多いと思うけど、Evolutionary Developmental Biology の略で、最近興りつつある学問である。

Nature vol.449 (7161), (27 Sep 2007) の最新の論文では、この進化に於ける形態変化に発生が関与する事は、もはや、間違いのないところだということを、臼歯の進化を例にとって解説している。当然、親知らずも関係アルわな!!

なるほどねぇ~~~~

進化:発生は進化の選択肢を作り出す

Nature vol.449 (7161), (27 Sep 2007)

生物多様性を作り出すのに生態が重要な要因であることは明らかである。

だが、発生にも進化を導くような要因が存在するのだろうか。

「エボデボ」研究は、さまざまな動植物の発生過程のその祖先種の類縁関係による違いを調べて、この疑問に答えることを目指している。

発生と進化のこうした結びつきを検証するのに、マウスの臼歯の配列状態は有効な材料となる。

マウスの第一臼歯は、その後ろの第二臼歯よりも大きく、第二臼歯は一番奥の第三臼歯よりも大きい。

Kavanaghたちは今回、このことを実験的に調べ、臼歯の発生が抑制カスケードモデルに従っていることを見いだした。

この結果から、食餌が歯の進化の推進力である一方で、発生は自然選択に応じることが可能な複数の選択肢を作り出すことがわかった。

そして、厄介な問題を引き起こしやすいヒトの親知らずに関していえば、その「厄介さ」の元凶はヒトでの抑制カスケードの弱さにあるのかもしれない。

Articles p.427

News and Views p.413


■お次は、ちょっとマニアック?なところ。

ワトソンとクリックが DNA の二重らせん構造を発見した時、その構造をX線解析した写真とともに発表したので、それを見て知っている人は、DNA はスタティックな二重らせん構造をとっているとイメージしている人が多いのではないだろうか?

私もそうだった。

化学物質としての DNA の反応のしやすさから考えると、そうなんだよなぁと納得できる事でも、頭の中でイメージする DNA はらせん階段そのものだった。

今回、Nature vol.449 (7161), (27 Sep 2007) から『DNAらせんは静止した分子ではなく、塩基対が「呼吸」しているように、短時間分離しては再びくっつくことを繰り返している。』との記述を目にして、むむむむむむむむ。

これからは、ハリーポッターの学校(ホグワーツ)にある“離れたりくっついたりする階段”をらせん階段に変形してイメージしなきゃ・・・・・。で、階段の構造物が“変性”しちゃった時、『ウラシル塩基が外れてらせんから飛び出したときに、ウラシルDNAグリコシラーゼはこれを捕まえて取り除く。』・・・・・・。

うんうん、DNA の“修正”がイメージしやすくなったぞぉ!!

なるほどねぇ~~~~

細胞:DNAから「U」を閉め出す

Nature vol.449 (7161), (27 Sep 2007)

ウラシル(U)はRNA中にあって、DNA中のチミンに相当する位置を占めている。

もしも誤ってDNA中にウラシルが出現すると、命にかかわる変異を起こすことがある。

その代表的な例は、シトシンの化学修飾によって起こる。

こうした恐ろしい変異を防ぐため、細胞はウラシルDNAグリコシラーゼ(UNG)という酵素を使って、DNAからウラシルを取り除く。

この酵素がDNAを監視して紛れ込んだウラシルを見つける詳しい仕組みが、今回明らかになった。

DNAらせんは静止した分子ではなく、塩基対が「呼吸」しているように、短時間分離しては再びくっつくことを繰り返している。

ウラシル塩基が外れてらせんから飛び出したときに、ウラシルDNAグリコシラーゼはこれを捕まえて取り除く。

チミンは、ウラシルとはメチル基1個が異なるだけなので警戒中の酵素にウラシルと同じように捕まるが、酵素の活性部位にそれほどぴったり合わないため、釈放され、DNA分子中に戻って本来の役割を果たすのである。

Articles p.433


20070929_homo.jpg■お次は、男女間の情の機微が“科学的”に解明できそぉ~?って。

昆虫では確認されている“フェロモン”なんだけど、人間ではどおなんだろう?

って、誰しもが考えた事だろう!これ、進化論的に考えると、子孫を残す為に有利に働くとしたら、多型が存在するってのが、私にはよく理解できなくなっちゃうのだけど、実際にはあるらしい。。。。。もっとも、アンドロステノンをフェロモンとしたらって事だから、この前提が“頓珍漢”だったら、ナンセンスな疑問になっちゃうんだけどね。

ところで、サブリミナル効果と違って目に見えない“匂い”って、商売に利用するあたって、倫理的・法的にどうなんでしょ?例えば、モテモテ香水なんてのが作れちゃうわけでしょ?

でも、これを身にまとった女性が、周りの男達に“性的な刺激”を与えたとしたら、意中の男性を落とせたらいいけど、嫌いな男性が“鼻息荒く”近寄ってきたら・・・・。

ピンポイントで狙いを定める、そう、薬でいえば DDS (Drug Delivery System) のように、そのフェロモンの目的に送達する技術も開発しなくっちゃ、商品にならないね。

なるほど・・・?

生理:アンドロステノンを嗅ぐ

Nature vol.449 (7161), (27 Sep 2007)

ヒトでは、特定の匂いに対する感受性と、それらの主観的な認識のどちらにも、かなりの個人差がある。

今回新たな研究から、単一のヒト嗅覚受容体にある遺伝的差異が知覚の個人差と関連することが初めて示された。

嗅覚受容体のOR7D4は、in vitroでアンドロステノンにより選択的に活性化される。

アンドロステノンはテストステロンの代謝産物で、ヒトのフェロモンにあたるのではないかと考える研究者もいる。

OR7D4をコードする遺伝子の差異は、個人がそれぞれアンドロステノンをどのような匂いと感じるかに影響を及ぼしており、この匂いを快いと感じる人や不快と感じる人、さらには何も匂いを感じない人がいる。また、こうした差異は匂いの強さの知覚にも影響を及ぼしている。

Letters to Nature p.468


■さて、アンドロステノン=フェロモンの如く、やっと“前提が間違っているんじゃないの?”にたどり着いた。

最後は、『へぇ~』を100連発したい内容だ。

ご存知の通り、鳩山法務大臣の死刑執行に関しての発言が物議をかもしているが、その方向に対してである。新聞各紙の社説では、、、、『人命を軽軽しく・・・・』で一致しているけど、、、、、

ちょぉっと、まってよぉ~~~~~~~~~!

だ。

私は、最終的に司法の判断とは別にその執行を判断する機関があるとか、刑事訴訟法にある具体的な手続きとかは、新聞の社説で知ったわけだが、まぁ、それはどうぞやったくださいって事でいいけど、癌の専門医が最高の設備と検査を駆使して得た結論『あなたは癌です』に、素人が『疑問の余地があるから、独自に調べます』みたいな感は拭えない。

それを含めても、まぁ、勝手にやってください。ってことなんだけど、死刑判決を受けた犯罪人に果たして『人命を軽軽しく・・・・』なんて事を考える対象になりうるのか?

ってことなのだ。

光市母子殺人事件の犯人の死刑を『軽軽しく出来ない』なんて、どれくらいの数の日本人が思っていると思うのか?
何の落ち度もない人を5人殺した、7人殺したなんて犯罪人の命は、それこそ『軽軽しく扱う』べきものなのではないのか?


どの社説を読んでも、『何人の人命も軽軽しく扱うべきではない』に疑問の余地がないものとしての論法なので、そのロジックには全く破綻はないのだ。


これが、恐ろしい!


新聞は、世論を調べるではなく、世論をミスリードしているとしか、感じられない。新聞社の考えには、あきれかえって『へぇ~』を100連発だよ。

私は、鳩山大臣の『法務大臣のハンコなんか無くても、死刑執行できるように法律を変える』との発言には、大賛成だ!!亀井静香は無視に限る。福田首相が『靖国参拝は(中国・韓国は)嫌がってんでしょ?だったら、しませんよ』みたいに、相手の土俵に乗らなければいい。亀井静香は死刑廃止を議論の遡上にのせたくてしょうがない人なんだから、遡上にのせる事で、奴らの勝ちになっちゃう。だから、議論すらしちゃいけない。モラルのかけらも無く、精神構造が未熟な日本人には、死刑の抑止力は絶対必要だ。未成年だからと犯罪を重ねる少年が後を絶たないのを見れば、殺人しても死刑にならなければ簡単に人を殺すヤツが増えるのは、火を見るより明らかだからね。


新聞各社は、誘導尋問ではない方法で、『死刑判決が出るような犯罪、すなわち人殺しをおこなった人間の刑執行に際して、重々しく行うとか、軽軽しく行うべきではないとかと、そもそも、そんな議論の余地があるのかどうか』を国民に問うて欲しい。

『オウム真理教のアサハラショウコウに人権があるのか?』
『光市母子殺人事件の犯人に同情の余地はありますか?』でもいい。
『司法に携わる数多くの人達がこれだけの時間をかけて審議して得た結論“死刑”(光市のほうはまだだけど)に、ほぼ、素人の法務大臣が疑念を挟むって、意味のある事なのか?』と。

最高裁で決定された判決を、さらに吟味する事にどれだけの意味があるのか?冤罪の心配は個別に扱えばいいし、恩赦を引き合いに出していた社説もあったけど、そんなものはその時(天皇が崩御した時)に考えればいいだけの事ではないのか?

意味の無い“屋上屋を架す”ような制度こそが合理的でなく、警察や検察が未熟だった頃の遺物である法の“取り決め”が亡霊のように取り付いている、そんな印象を受けるのだが・・・。

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