さぁ~て、いままで"足の裏に付いた米粒"のように気になっていたんだけど、昨日は、その米粒が取れたような気分になれた判決が出た。だが、ご遺族の方の心情をおもいやると、なんとも複雑だ。(あっ、光市母子殺害事件のことねっ!)
結局、元少年が死刑になっても、ご遺族の妻と子供は帰ってこない。刑法は、人の心の癒しにはなりえない。社会生活に折り合いをつけるのが精一杯だ。
私は死刑反対論者ではないけれど、今回の死刑判決にあたり、ご遺族が精神的に折り合いをつけられるようにするには、何も死刑が適切ではない・・・・と思うようになった。
非常に子供じみている・・・と我ながら思うのだが、先日、HDD レコーダに録画してあった北野武主演の『座頭市』を見た。最後のシーンで悪党の親分に座頭市が語るのだ。(見てない人に配慮して詳細は書かないが)この言葉があったればこそ、両親を殺された姉弟の気持ちも癒されると。
死刑が極刑なら、元少年はそれが至極妥当なのだけれど、もし座頭市が与えた罰が現代日本に作れるなら、死刑をなくす事にはモロ手を上げて賛成しても良い。(多分、"人道的"という言葉で瞬時に葬り去られるだろうけど)
ところで、昨日、朝日新聞の記者がご遺族に向かって『死刑のハードルが低くなったが、どう思うか?』と質問していたらしい。圧力がかかったのか、この映像はネットのどこでも見られなくなっている。そして、巷では『アサヒる』という言葉が流行っているのだそうだ。まぁ、中国萌え~、北朝鮮萌え~、死刑反対萌え~、自虐史観萌え~、原発反対萌え~・・・・じゃ、ショウガナイかぁ。
こんなにも朝日新聞が嫌われると、なんとなくカワイソウになったりするんだけど、折角、元少年の本名と素顔が見られる貴重なサイト"クソガキどもを糾弾するhp"が行方不明になってしまった事にも関わっているとしたら、それは許せないなぁ。(もっとも、サーバが台湾にあったそうだから、朝日新聞と仲が良いのかどうかわかんないんだけど・・)
今朝から、【進化論の歴史】(八杉竜一著)という本を読んでいる。岩波新書(青版)で1979年6月20日 第13刷発行と奥附にある本だ。高校の時に手に入れたものらしい。何でわかるのかといと、○○高校図書館と印が押してあるからだ。借りたまま本棚に入れて失念したらしい。(ゴメンなさい)
その内容なのだが、まえがきに著者が書いている。「本書は厳密な意味での進化学史ではなく進化思想史であり、進化思想史というよりはむしろ生命観の側面史である」と。そしてアリストテレス以前からの生命観からキリスト教との関わりを進化論前史として第一章にまとめてある。
ところで、私はアリストテレスには親しみを感じている。何故なら、大好きなアレキサンダー大王の家庭教師をしていた人だからだ。単にそれだけなのだが、好きな人の思想というのは、頭に入りやすい。
閑話休題。進化論とキリスト教との関係では、グールドの考えにしっくりくるものを感じた訳だが、実は、実存主義に目から鱗が落ちた西欧人の感覚がわからなかったのと同様の感覚に捕われたのだった。
なんで、そこまで、進化論を嫌うのか?どうして、進化論を嫌う人を(ドーキンスは)そこまで嫌うのか?
グールドの本を読んで、『ふむふむ、なるほどねぇ、自分もグールドの考えだなぁ』と思ったのは良いのだけれど、【進化論の歴史】の第一章を読むと、生物が境目無く下等なものから高等なものへ続いている事へ反発する教会指導者はいなかったことがわかった。そればかりではなく、神が6日間で地上の生物を全て作ったとするのを文字通り捉えるのは、聖書の皮相な読解であるとトマス・アクイナスは述べているとも書いてあった。
なぁ~んだ。最初は、みんなグールドみたいに考えてたんジャン!!
私が実存主義を『なんで、そんなに当たり前の事に驚いているんだろう?』『もしかして、驚けない俺って、バカなのか?』なんて思ったのと同様、進化論とキリスト教の関係で、グールドとドーキンスの対立が良くわかんない俺はバカなのか?って思ったんだけど、結局、キリスト教に根付いた文化を知らなかっただけなのだ。
文化に根ざす感覚や価値観は、勉強してわかるもんじゃない。
今、世界の道徳的なグローバルスタンダードは、間違いなく一神教を信仰している人たちの価値観だ。(道徳だけじゃなく、経済もだけど。最近はヒンズー教の台頭も著しいが・・・)
光市母子殺害事件の死刑判決が実現した昨日、死刑以外にも選択肢があっても良いと感じたわけだが、それは、それを上回る苦痛を犯罪者に与える事が出来るという大前提があっての話だ。
死刑廃止論の論拠に、安直に世界の道徳的なグローバルスタンダード持ち込まないならば、聞く耳はもてるのだが、現在、日本に存在する死刑廃止論はどれをとっても、グローバルスタンダードの皮相な部分の臭いがぷんぷんする。(一神教の紆余曲折も知らない)
日本人に"一神教"の価値観、道徳観を押し付けても、実存主義の考えや進化論とキリスト教の折り合いについて日本人がピンと来ないのと同様なのだ。
「法律に感情を持ち込むな」なんて事を言うような、人間の脳の仕組みを理解していない人には、堂堂巡りになってしまう恐れもあるが、そもそも、多様な価値観の人が一緒に暮らしていくのに折り合いをつける方便が、法律だったはずだ。
価値観とは、出来事に直面した時の湧き上がる感情の事だ。
法律に感情を持ち込むなってことは、価値観をなくせと同義ではないのか?だから『どうして、人を殺しちゃいけないんですか?』とか『憲法にも刑法にも人を殺しちゃいけないと書いてない』とか言い出すヤツが出で来る。
安田とか言う弁護士は死刑廃止論者だから、元少年の量刑は極刑に値するけど死刑は反対だってスタンスはとれない。だから、あの犯行を傷害致死として争わざるを得なかった。これはこれでわからなくもないのだが、わからないのは、こういう弁護士の行動だけを見て『死刑は重すぎる』と言うヤツがいることだ。
でも、日本人独自の道徳観なんてものは、もう、無いのかしれない。モラルすら成文化しなくっちゃ行動の規範とならないヤツが増えてるからなぁ。
でも、これだけは言える。北野武主演の『座頭市』を見て、スカッとする感情が沸いてきたなら、私と同じ価値観の人だ。