結果の平等を求める主張ってのは、結局は当事者のエゴなのだが、このエゴを軽く扱うと政治家は政治生命が絶たれるから、話はややこしい。
しかも、結果の平等の実現が社会正義である為には、その不平等が努力しても報われないという社会構造が前提となっていなくてはならないが、現実は、当事者の努力不足が主たる要因であることも、話をややこしくする。これを突き詰めると、ニート(とそれに準ずる人達の)差別はやむなしとなってしまうからだ。
親切か公平か(Kindness or Fairness?)Science May 23, 2008, Vol.320
希少な資源の割り当ては、グループ全体にとって最大の利益になるようになされなければならず、グループのメンバー個々に対してできる限り公平でなければならない、と提唱するのはたやすいが、この2つの目的が同時に最適化できないとしたら、どうすればよいのだろう?
Hsuたちは機能的脳イメージングを用いて、このジレンマを解決するためではなく、一方の視点(たとえば、平等を優先する)を他方(効果を最大にする)よりも支持する際の根底にある認知および情動のプロセスを調べた(p. 1092、5月8日オンライン出版; また5月9日のMillerによるニュース記事参照のこと)。
報酬のコード化に関与する脳領域は総利得の計算にも関わっているが、一方、公平さと有用性の均衡を図ることは、情動の処理を行う神経系に結び付いている島(insula)の区域で行われているらしい。
つまり、公平性の判断というものは、純粋な合理性ではなく、情動をベースにした優先度に由来しているのである。
The Right and the Good: Distributive Justice and Neural Encoding of Equity and Efficiency
p. 1092-1095.
『公平性の判断というものは、純粋な合理性ではなく、情動をベースにした優先度に由来している』というのは、上の写真のケース以外にも、自分と比較する対象(自分の周り)に、自分とは収入の違う人が存在しなければ不公平だという"不満"は顕れないという事でも、よく理解できると思う。(ビル・ゲイツと比較して不満を言うやつはいない)
人間、みな平等、人類はみな兄弟、、、、って言ったって、日本人は日本以外の貧しい人の人を、実生活で感じているわけじゃない。カンボジア、アフガニスタン、、、、、それらの人と比べたら、自分たちを平等に扱われていないなんて"不満"は顕れないのではないか?
人間、みな平等なんて"お題目"を唱えるなら、かの国の人たちも救わなきゃ・・・ねぇ?
学歴という身分制度の弊害は、学校の成績が実社会における仕事の能力に比例しないにも関わらず、その雇用に際しての機会が与えられないところにあると言う言葉を聞くことがある。
しかし、仕事の内容によっては学校の成績がものを言うのも、また事実である。
十把一絡げで"総括"できないような問題は、やはり個別に考えるべきなのだろう。世論を動かすのは、それこそ、グループ全体にとって最大の利益を失する事になりかねない。
さて、話は変わって、この"お題目"という言葉だか、日蓮系・法華経系の宗教団体などにおいて勤行の際に用いられる「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」の文句のことを指す言葉だと知る人は、少ない。ちなみに"念仏"とは、浄土教系の宗派教団において、勤行として「南無阿弥陀仏」と称えることをいう。
「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」は"念仏"とは言わないのだ。意味も違う。
・・・まぁ、細かい事はどうでもいいけど、この道を極めた人は、他人と自分を比べる事はしない。(葬式仏教の坊主がどうかは知らないけれど・・・)
『自分は平等に扱われていない』なんて思い悩む人は、この道に入るのも、また、一つの方法なのだろう。
しかし、この道のなかには、お金をせびる所も存在するので、その選択も、なかなか、むつかしい。