サイエンスの分野でも謎を一つずつ解き明かしていくと、その現象に緻密な意図を感じる時がある。
たまたまの偶然の所業だとはわかっていても、そこに人知を超えた“あるもの”の存在を感じざるを得ない時がある。
地球の始まりや、もっと遡って宇宙の始まりも“説”としては知ってはいるが、理解は不能だ。クオークやレプトンである電子やニュートリノがキーワードになり、ノーベル物理学賞に南部陽一郎、小林誠、益川敏英の3氏が選ばれた昨年、分からないなりに「素粒子物理学と核物理学における自発的対称性の破れの発見」、「クォークの世代数を予言する対称性の破れの起源の発見」なんてのを理解しようと努力したりした。
しかし、直感的に言って、神様(別に神という名前じゃなくても良いけど)を想定した方が、分かりやすい。インテリジェント・デザイン説に傾倒しちゃう人がいるのは無理も無いのかもしれない。
事実、地球には、神を信じて生きている人の方が圧倒的に多いのだ。
発生:チェックとバランス
Nature vol.457 (7232), (Feb 2009)
胚の発生の際には、まず神経細胞が過剰に作られ、これらのニューロンとその長い突起(軸索)の多くはその後、自然退縮の過程で除かれる。
Nikolaevたちは、アポトーシスを誘導するタンパク質DR6(デス受容体6)が、この自然退縮過程の調節因子の1つであることを突き止めた。
DR6はAPP(βアミロイド前駆体タンパク質)に結合することで作用する。
膜貫通タンパク質であるAPPの機能はまだわかっていないが、ヒトの遺伝学研究でアルツハイマー病との関連が疑われている。
ニューロンの典型的なアポトーシスではカスパーゼ3が必要だが、DR6/APPが誘導する退縮はこれとは異なり、カスパーゼ6の活性化が必要である。
この知見は、APPの細胞外断片がDR6とカスパーゼ6を介して働いて、アルツハイマー病の神経変性の一因となっている可能性を示唆している。
Articles p.981
人の一生は、精巧に仕組まれている・・・・・・・・のかもしれない。
発生の段階に限らず、傷(組織損傷)の治癒過程をみても、まず、一旦、過剰に作られて、必要の無い細胞を脱落させるという過程を経る。(皮膚の傷がふさがる時も、一旦は盛り上がるけど、そのうち平らになるでしょ!)これは生物の基本だ。
で、生まれる時、すなわち発生の段階で使う遺伝子を、老化して最後の段階でも使う・・・・・・・・。仕組まれているって感じない?
神経組織を構築する時に使った遺伝子は、一旦、眠りについて、再び人生の最後で、また使われるのだ。
人生の最後に APP に活躍の場を与えられるためには、その個体の体(脳以外)が『もう、限界だよ』というシグナルを発しており、それを受けてシステムが動き出す・・・・・、そんなシナリオを考えてもいいのかもしれない。
アルツハイマー病にならなかったひとは、体が『まだまだ、余裕あるよ』って言ってるか、或いはシグナルが届かない人なのかも。。。。老化に対しては『まだまだ、余裕あるよ』って言っても、病気で死んじゃえば“脳”は死ぬ準備を始めない・・・・・。
生きて、行き続けることが現代人にとって何よりの“幸せ”だとすると、死を否定するしかなくなる。しかし、我々には、予め死が予定されている。。。。。。
二つの選択肢、すなわち、片方は無残な“死”、もう片方は物質的にも精神的にも肉体的にも全てに恵まれた幸せな“生”から一つを選ぶとすれば、誰だって“生”を選ぶだろう。
しかし、死ぬも“地獄”だけれど、行き続けるのはもっと辛い“生き地獄”だとしたら、どちらを選ぶだろうか??
意識がハッキリとしている状態で、肉体が朽ち果てても死ねない、、、、、これじゃやりきれない。アルツハイマーは神が与えた慈悲・・・・・。
こう考えれば、死は必ずしもネガティブに捉えなくてもよくなる。人はこういう状況に置かれた時、受け入れざるを得ないもの、すなわち死に対して、神の御心なんてものを思い描いちゃうのかも・・・・。
話は変わるが、一つの方向からしか物事を見ないと本質を見失うことがある、善と悪はいつもでも相対的であるという事を示す例では次の論文が適当かもしれない。
小さな殺害者(Little Killers)
Science February 6 2009, Vol.323
血小板はコラーゲンに曝されて活性化されると傷ついた血管をふさぎ、そして又、マラリア寄生虫に粘着して、マラリア寄生虫を細い末梢血管内への隔離を促進し、大脳病理学に寄与している。
これらの一般的な粘着性の性質は、また血小板が病原体攻撃の初期段階に対する前線防御ラインへの価値ある支援部隊であることを意味している。
McMorranたち(p.797)は、感染の後の段階での病理学的役割にもかかわらず、血小板がマラリアの初期段階に対する生得の宿主応答に重要であることを示している。
アスピリンを含めた血小板凝集抑制剤により、in vitroでの熱帯熱マラリア原虫における血小板の致死的な効果が除去される。
血小板の欠損を持つマウスは類似のマラリア原虫の感染により急激に衰えていく。
二つのケースで、血小板は感染した赤血球にくっついて、寄生虫を殺す。
Platelets Kill Intraerythrocytic Malarial Parasites and Mediate Survival to Infection
p. 797-800.
---みのもんたに告ぐ---
『血液サラサラは絶対的な“善”ではないんだよ。ところ変わればマラリアで死んぢゃうんだからね』
この場合の生死の選択は、片方は“不幸な死”、片方は“幸せな生”だから、生きる事が“善”とした価値観の上で、『・・・・ところ変わればマラリアで死んぢゃうんだからね』と“死が悪である”と言っているところに注目!!
生きる事が“善”としての定義がなされないで、理論が構築されていく“違和感”は、、、、次の如くだ。
司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読んでいる。・・・・面白いのだが、この作者は自分の価値観を小説に頻繁に登場させる。その価値観に違和感を感じる事が多々ある。(違和感があっても、小説は面白いから読むんだよねぇ。作者の好き嫌いには関係ないし。っていうか、私、小説家の好き嫌いって、、、、ほとんどない。身近な人じゃないから、好き嫌いの対象にならないっていうか・・・なんだろうね?)
違和感の原因は何だろう?と思い、ちょっと考えたのだが、『この世の中で“死”は“絶対悪”で、生きていることはそれだけで“絶対善”で“絶対幸福”である』という価値観が無意識に、或いは立場上言わざるを得ない為にあるのではないか?との結論に至った。
司馬遼太郎ファンの人からすれば『そんな単純なものではない』という事になるのだろうが、彼の小説にちりばめられた“持論”をこの視点で見れば、証明に破綻することは無いはず。
戦争を忌み嫌っているが、全てのロジックの根底には『この世の中に“死”ほど不幸で“悪”なことは無く、生きていればそれだけで“幸せ”である』が流れていると感じるのだ。作者は戦争に行き、その後小説家として大成功し、富にも名声にも恵まれたのだから、『生きていればそれだけで“幸せ”である』って感じるのは当然だろうし。
しかし、現実の世界では、天涯孤独、頼る人も頼ってくれる人もいない、手に職があるわけでもなく、戦地で名を馳せる以外には、野垂れ死にするしかない人がいるのも事実だ。そんな人が戦地を死に場所に選ぶのは、ある意味、尊厳死と共通のものがあるのではないか?
戦争は“絶対悪”であるとの価値観を公には言わざるを得ないとしても、人間が地球上の一生物種として誕生してしまった以上、どんなに悪であっても、いれを受け入れる事が現実的には必要だ。
戦争を美化する必要はないけれど、それが避ける事の出来ないものである以上、死んでいく当人の精神面が充実するような“嘘”は、必要悪なんじゃないのかな?と私は考えている。例えば、発見した時には、すでに末期の癌だった人につく“嘘”を誰が“絶対悪”だと言えるのだろうか??明治の時代、天皇を神にすることが、そんなに悪だとは思えないんだけど・・・・・なぁ。
『癌の発生は人間にとって不可抗力だけど戦争は違う』なんてのはロマンチストの発想だ。
結果が同じ“死”なら、兵隊が国や軍の指導者に騙されようがそんなことはどうでも良い。というか、騙されていたほうが、幸せなんじゃないの!
それに、国や軍の指導者が国民を騙す(洗脳)ことを“絶対悪”と評価するのは、100歩譲って認めたとしても、その指導者達を“無能”呼ばわりするのは“違和感”を感じざるを得ない。それじゃ、死んでいった人達は、ただの“馬鹿”や“キチガイ”の犠牲になったってことなっちゃうじゃんか。それじゃ、浮かばれないよなぁ。
それに浮かばれないだけじゃなく、“戦争は馬鹿がいるから始まる”みたいな事も持論のようだけど、馬鹿ってのもある意味相対的なもので、絶対馬鹿なんてのはいないんだよねぇ。
作者が考える“聡明な人”だけで国家を作るために地球上から“馬鹿”を抹殺して、一から始めても、その“聡明な人”の集団内でも序列が付く・・・・。また、『馬鹿が・・・』と始まるんだよねぇ。
自然界の 1/f 揺らぎは集団内に、あるスケールに則せば序列をつける。それは遺伝子の多様性の結果であり、生物が生物であり続ける為の必然だ。
頭の良い人だろうに、こんなこともわからないのか・・・・という根本的な違和感もあるのだ。
もっともこの違和感は、偉人と呼ばれる人を“無能”呼ばわりするのは、小説家として大衆の受けを狙ったものとしてみれば自然だから、こんな意図を悟られない為に大層な理屈を展開しているのかもしれないって考えれば、すぐに晴れるんだけどね。
敢えて偏った価値観を展開することで、世の中に議論の場を提供する為、価値観、主義、思想を鮮明にさせる為という事を狙ったのかもしれない。これは重要なことだ。日本人は議論が嫌いみたいだけど、異なる意見をぶつけ合うことが、排他的にならないためにも重要だからね。リチャード・ドーキンスも『悪魔に仕える牧師』『神は妄想である―宗教との決別』でかなり偏好した主義主張を展開している。『神と科学は共存できるか?』のスティーヴン・ジェイ・グールドとの論壇は、かなり面白いし。
まぁ、これらを含めて、凡人の私には作者の心中は何処なのかは知る由もないのだが・・・・。
p.s.
この写真は以前、そのインパクトの余り海外の掲示板やブログで貼られまくりそれを見た外人さん達は、あり得ないと一様にビックリしたそうだ。
さもありなん。人間の心から、タブーと世間体と道徳心を取り払えば、価値観なんてこんなもの。多様性、あるんだよなぁ・・・・・。戦争、紛争、テロ・・・おこるよなぁ・・・そりゃ。
当然、私には、何にびっくりしているのか見当も付かない・・・・。治安の良さってありきたりだよね?