進化心理学のパイオニアである Leda Cosmides による“新しい解釈”を知った時、私は、私自身の【ルールを無視する奴に対して沸き起こる嫌悪感】を説明するのに、『これ以上のものは無いっ!!』って感じで、膝を打ったものだ。
ポイントは互恵的利他行動。
・これは抜け駆け個体が多いと進化しない。
・抜け駆け個体に対しては利他行動をしないように、そいつを見抜く能力が進化。
・脳に専用のモジュールがある(かも)。
ルールを守るということは、自分にとれば行動が制限されたり我慢しなきゃならないわけで、それは他人の為の行動、すなわち利他行動と考えられる。それを“お互い様”にすることで自分の生活圏から得られる利益が向上する。すなわち「情けは人のためならず」でルールを守る行動は互恵的利他行動とみなせる。
ルールを守らない“奴”に対して“嫌悪感”を抱く為だけに、脳にモジュールが存在しているのだから、人は、電車の中で携帯電話で通話する奴に“嫌悪感”を抱くのだ。
脳に専用のモジュールがあるかどうかについては議論の余地があるようだが、私は研究者じゃないので、細かいことはどうでもよい。そして、“本能”という言葉の定義に違和感がある人もいるかもしれないけれど、この“嫌悪感”は本能と言っても差し支えないのでは、、、と思っている。
巷では、携帯電話使用を注意する人を、「心が狭い」とかなんとか言って、逆に中傷する人がいるが、自分の無知無教養をさらけ出しているようなもんだ。「心が広い」「心が狭い」の問題じゃないし、しちゃいけないんだよね。それこそ、問題のすり替えだ。
ルールを守らない人に抱く嫌悪感は本能なのだからね。
というわけで、カレー毒物混入事件の判決。
本日の朝刊はどこでも一面の扱いだろう。判決理由は蓋を開けてみれば“当たり前”の事なんだけど、昨日の判決が出る前の時点では、ワイドショーなどは“動機”がわからないから、判決は微妙・・・・みたいな論調で出演者に語らせてたりした。
私は、この“動機”を重要視する(させる?)マスコミのスタンスには“嫌悪感”を感じていた。
・・・が、今朝の朝刊で、「動機が解明されていないことは、被告人が同事件の犯人であるとの認定を左右するものではない」という論拠が示され、溜飲を下げたのだ。
法律(ルール)は、そもそも、ヒトが互恵的利他行動をするにあたって、恩恵だけを受け取り利他行動しない“ズルい奴”を探し出し、自身の利益を損なわないようにする・・・という、生き物の本能から発したものだと考えられる。
だとしたら、利他行動をしない“理由(動機)”はどうあれ、そいつに対して“嫌悪感”を感じるのは生物として“当然”で、そいつを仲間はずれ(村八分)にするのも生物として“当然”だ。
最終的に、そこで、“ズルい奴”の生命は絶たれる。うまくいけば生きながらえて遺伝子(子孫)を残せるかもしれないけれど。。。。
文明後の人間の間では、“ズルい奴”にも罰を与えることで、仲間に引き戻す、すなわち、更正の機会を与えるのだが、別に“ズルい奴”の動機は問う必要は本来はない。とにかく、“ズル”をすれば(ルールを守らねば)報いがあるってだけで、目的は達せられるのだから。(最近は、法学・法律が一人歩きしている感がある。刑法第39条を含めて・・・)
カレー毒物混入事件の被告人は、生物としての単純なルールに裁かれたと理解した。
マスコミが「動機、動機」と騒ぎたて、「裁判員になったら、あなたはどう判断する?」なんて方向は、別な意図を感じてしまう。
「感情に流されてはいけない。理性的に考えなければならない」などという人がいるが、人間の理性的な判断というもの実態を知らない無知な人の言葉だと言わざるを得ない。
そんな人には、『生存する脳―心と脳と身体の神秘』(アントニオ・R. ダマシオ著)を読むことを薦めよう。理性的な判断をするために、どれだけ感情が重要なのかがわかるだろう。
私は、裁判員になった時には、本能が“嫌悪感”を発したら「死刑」を選択する事には躊躇しないだろう。そして、その判断には不安は無い。。。。。と思う。