男の“やきもち”“嫉妬”“独占欲”
女性の“操(みさお)”って言葉は、どこの国、どの民族にもあるんだと思う。そして、女性にしかわからないこと、、、、それは、、、、
自分の産んだ子が、自分の伴侶の胤なのか、はたまた“否”なのか。
いくら女性でも、操を守らず出来た子が、誰の胤なのか特定することは出来ないが、操を守っている場合に限っては、誰の胤なのかを特定することは出来る。
操・・・いわゆる貞操観ってヤツが、どの国にもどの民族にもあるのは、なにも、道徳的なことだからではない。
集団生活を営む、すなわち互恵的な利他行動をとる生物は、もっとも基本的なところで、“雌の性生活”に影響を受けるからだ。いや、影響を受けるというより、それが在ったが故に、大脳皮質を介して“互恵的利他行動”をとらせているって言ったほうがいいのかもしれない。
余談だけどオスの側の“やきもち”“嫉妬”“独占欲”は、ヒトの集団生活を維持するための適応的な進化の賜物?なのかも。
だとすれば、“物分りの良い男”を演じるのも、結果的には不利益に、、、、?
協力と乱婚の関係Nature 466, 7309 (Aug 2010)
動物には個体が協同的な社会集団内で生活する種があるが、それはなぜだろうか。
多数の鳥類種を対象とした分析で、ある種が協同的となるか否かは、雌の性生活に左右されることが示された。
協同的な傾向は、例えば雌が1羽の雄としか交尾しないなど、乱婚が少なく、援助者が援助対象を血縁者であるとより強く確信できる場合に強くなる。
乱婚が中程度に行われていると、血縁者と非血縁者とを識別する能力が生じやすいが、乱婚が多くなると、いかなる形式の協力行動も生じにくい。
Letters to Nature p.969
News and Views p.930
フェミニズムやフェミニストを非難するわけじゃない。。。。。そもそも、私は、進化生物学的なモノの考え方が基本にあるので、区別を“差別”と捉える考え方に違和感を覚えるだけだ。
人類にとって、女性に貞節を守らせる事が“差別”に繋がるから、平等に、、、、って言うのだけど、それって、、、、、なんか、不自然に感じるだけ。
nature の論文では、鳥を対象にしているから、ヒトでは当てはまらないって言う人もいるだろうけど、地球上に誕生した生き物なんだから、基本は同じ。
いや、協同的な社会を作ることを“是”あるいは“善”としなければ、雌に貞操を守らせる必要は無い。
言いたいのは、このこと。
子ども二人をアパートに閉じ込めて、死に至らしめた母親をネタに、テレビでは有識者やコメンテーターが自説を展開している。連日、こんなのばっかり。うんざり。
あっ、イタリアに行ってるハズなのに、なんで、そんなこと知ってるのか?って??
夏季休暇は、アルプスの南、イタリア北部のコモ湖で過すはずだったのだが、信州は長野、安曇野に変更になっちゃって、、、、、、ワイドショーも見ていたのだぁ~~~~ってバカ!
閑話休題、ワイドショーから聞こえてくる言葉は、いずれも、生物学的には矛盾する“本性”を同時に“ヒト”に求めるもの。“道徳観”とか“愛情”とか。
『少子化対策をただす』で取り上げたとおり、“ヒト”は、我が子に愛情は感じるが、“育児という労務”は愛情に起因する行動ではない。
愛情はオキシトシンと結びつけて考えられるけど、“育児という労務”はむしろ“互恵的利他行動”と結び付けた考えたほうが、自然である。
“子育て”を“互恵的利他行動”と結び付けるなんて、、、子育て真っ最中のお母さん達から“非難轟々”だろうけど、私自身も“子育て真っ最中”なお年頃でもある。っていうか、男が“独占欲”も発揮しない“子ヤギちゃん”になっちまったから、“互恵的利他行動”も取れなくなってるっつーの。
かたほうで、女性の性の解放を叫びながら、もう一方では“モラル”というか“道徳”というか“愛情不足”とかなんとか、いっちゃってる有識者やコメンテーター、辻褄が合わなくなると、社会が悪い・・・・とかなんとか。
バカじゃネ?(語尾の発音は上げる)
“こけし”っていう人形は、“子を消す”という行為から来ている。
昔から、育てられなきゃ、子どもは消されていた。年寄も捨てられてたけど。どこかで折り合いをつけていた。でも、現代は、あれもこれも、あっちもこっちも、みんな巧く行かせたい、、、、
人という字は、人と人が支えあっている状態を表わしている・・・・ってなことを“言わない”なら、女性は操は守る必要は無い。すなわち、究極の女性の解放、究極の独立、究極の対等関係になると言えるのだ。
アパートに閉じ込められて、死んでしまった子ども達を守りたいなら、ヒトの動物としての“性(残酷で理不尽でもある)”を認めるところから始めないと、なにも解決しない。。。。。と思うんだけどなぁ。
そして、このような協力行動を取らせたいなら、有効な手段は、個人の自由ではなく、懲罰を与える者がコストを負担して、非協力者に懲罰を加えることによって安定化できるのである。
行動進化学:懲罰の段取りNature 466, 7308 (Aug 2010)
進化ゲームでの協力行動は、懲罰を与える者がコストを負担して、非協力者に懲罰を加えることによって安定化できる。
その形式にはさまざまなものが考えられるが、例として、ただ乗りする者、つまり協力とそれに必要なコストを負担せず利益のみを受ける者に対して個人が事後に懲罰を与えるピア懲罰や、制裁のための準備を事前に整えておくプール懲罰が挙げられる。
前者がつまるところ「私的制裁」であるのに対し、後者は懲罰のために警察を設けるようなものである。
今回Sigmundたちは、コンピューターモデルを使って、ゲーム自体では協力するが懲罰への寄与は拒否する「二次的ただ乗り」への対処に関しては、ピア懲罰よりもプール懲罰のほうが優れていることを明らかにしている。
このモデルは、寄与度を監視して、ただ乗りする者に制裁を与える自治的な機関が自発的に導入される可能性を示している。
これには、トップダウン型の指示や計画は不要である。試行錯誤、そして成功例の模倣だけで、私利に従う個人の間に社会的契約が生まれるのだ。
Letters to Nature p.861
さて、本日から、すっかり夏季休暇も終わってしまって、仕事をするという憂鬱な思いをしているわけだが、往生際悪く、休暇終了間際の8月18日、ディズニー・シーに行ってきた。
行列に並ぶ気などサラサラない私たち夫婦は、待ち時間ナシのアトラクションで娘を“騙しつつ(騙されてないみたいだったが)”、やることも無いので、私は“人間観察”とシャレこんでいた。
平和だ。
日本にはなんの問題も無い。こんなところにくると、そういう思いが一層強くなる。みんな“ヒトの性”通りに行動している。
最低限のモラルを守りつつ、最大限の自己の利益を獲得しようとそれぞれが行動し、折り合いがついているのだ。特別な知恵は必要としていない。そして、民主党が掲げている子育て支援だとか少子化対策だとか、、、、まったく、必要無いことが実感できる。
あってもなくても、やってもやらなくても、状況に応じて、なるようになる、なるようにしかならない、、、、って。