アフガニスタンのヤギ飼い
マーカス・ラトレル二等兵曹は、海軍特殊部隊のほかのメンバー3人とともに、パキスタン国境近くから秘密の偵察に出発した。任務はオサマ・ビン・ラディンと親交の深いあるタリバン指導者の捜索だった。情報によれば、目標とする人物は140~150人の重武装した兵士を率いており、近寄ることの困難な山岳地帯の村にいるとの事だった。
特殊部隊が村を見下ろす山の尾根に陣取ってまもなく、100頭ほどのヤギを連れた二人のアフガニスタン人農夫と14歳くらいの少年に出くわした。
武器は持っていないようだった。
米兵たちは彼らにライフルを向け、身振りで地面に座るように命じ、どうすべきか話し合った。このヤギ飼いたちは非武装の民間人らしい。とはいえ、もし解放すれば米兵の存在をタリバンに知らせてしまうリスクがあった。
どんな方策があるかを考えながら、四人の兵士はふとロープを持っていないことに気づいた。そのため男たちを縛り上げ、新たな隠れ家をみつけるまでの時間をかせぐことは出来なかった。選択肢は男たちを殺すか解放するかのどちらしかなかった。
ラトレルの戦友のひとりは殺すことを主張した。
「われわれは敵陣に潜んで作戦を遂行中だ。ここには上官の命令で送り込まれた。自分たちの命を救うためなら、あらゆる事を行う権利をもっている。軍人として何をすべきかは明らかだ。解放するのは間違っている」
ラトレルは迷った。
「心の中では彼が正しいとわかっていた」とラトレルは回想記に書いている。「どう考えてもヤギ飼いを解放するワケにはいかなかった。しかし困ったことに、私にはもう一つの心があった。キリスト教徒としての心だ。これが私にのしかかっていた。武器を持っていないこの男たちを冷酷に殺すことは間違っていると、何かが心の中でささやき続けていた」。
さて、ここをお読みの皆さんなら、どのような行動に出るだろうか?自信を持って、誇りを持って、自分の行動を決定できるだろうか?
どんな結果になろうとも、その行動が正しかったと思い続けられるだろうか?
ラトレルの場合は、、、、
キリスト教徒の心とは何かをラトレルは述べていない。だが結局、彼の良心はヤギ飼いたちを殺すことを許さなかった。
ラトレルは解放すべしというほうに事態を決する一票を投じた(三人の戦友のうち一人は投票を棄権した)。ラトレルはこの一票を悔やむ事になる。
ヤギ飼いたちを解放して一時間半位した頃、四人の兵士は、AK48小銃や携行式ロケット弾で武装した80~100人ほどのタリバン兵に包囲されていることに気づいた。その後の激しい銃撃戦で、ラトレルの三名の戦友は全員戦死した。そのうえ、ラトレルたちシールズ・チームを救出しようとしたヘリコプターも撃墜され、16人の兵士が命を落とした。
ラトレルは重傷を負ったが、かろうじて生き延びた。山腹を転がり落ちると、12キロメートル近くを這って、あるパシュトゥーン族の村に辿り着いたのだ。村人たちは救助が来るまでラトレルをタリバンから守ってくれた。
当時を振り返り、ラトレルはヤギ飼いたちを殺さないとした自分の投票を責めた。
「これまでの人生において、もっとも愚かで、馬鹿々々しく、間の抜けた判断だった」と、ラトレルはその出来事について書いている。
「頭がおかしかったに違いない。墓穴を掘るとわかっている一票を投じてしまったのだから・・・・・とくに、今はその時をそんなふうに思い出している・・・・決定票を投じたのは私だ。東テキサスの墓地に安らぐまで、その事実は私をさいなむだろう」
この文章は、『これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学:マイケル・サンデル』からの引用だ。
この事例は、かなり“インパクト”があるらしく、『アフガニスタンのヤギ飼い』とググるとかなりの数のサイトがヒットする。中には、本屋で立ち読みしただけでステレオタイプに“米国の(父権的)正義”に対する批判へと結論しているお粗末なサイトもあるが(しかも上位にランクされている。グーグルでは、なんとトップ)、十人十色で、いろんな意見、いろんな感想が披露されている。
この本を読めばわかるように著者のサンデル教授は、「こうすることが正義である」なんて結論していないし、講義や著書を通して正義は議論の中で生まれるって言っている通り、その議論こそが大切であることを示している。
他の人も指摘してるが、この問い対する答をサンデル教授は用意していない。プラトンの例(洞窟の囚人は本質を理解できない)を引用して述べているだけだ。「われわれは内省だけによって正義の意味や最善の生き方を発見することはできない」つまり、「議論」によってのみ、最善の行き方に到達できる、と。
さて、現代の日本において、このようなシビアな選択を迫られることは無いだろう。でも、過去にはあった。しかし、全員ではない。昭和初期から太平洋戦争終結までを経験した人においても、自分たちの行為に評価が分かれる所以だろう。
平時の、それも、平和ボケを享受している我々の“正義感”“道徳心”から生じる“人道的”と呼ばれる判断が、はたして万能なのか?を問いかける好例なんじゃないかと感じたわけだ。
この時期、よく、ネタにされる“村山談話”に対して、私は、『国の利益が増すのなら、あの内容も方便』とだけはかろうじて評価するけど、薄っぺらな人道面を強調する理屈には、辟易するひとりだ。
話をラトレルの経験に戻す。ラトレルは自分の任務(戦時下の行動だ!)を果たすべく、ヤギ飼いを殺したとする。結果は、タリバン指導者を確保できたことだろう。目的は果たされることになる。そして、戦友の死も経験しない。したがって、ラトレルは死ぬまで、キリスト教徒としての良心に苛まれることになるだろう。
どちらにしても、ラトレルにとっての利益は無い。「だから、戦争自体が“悪”なのだ」という人もいるだろう。
“悪”“悪者”を作るのは簡単だ。だが、その回避法を示せたためしがない。
“悪”“悪者”を作って断罪するのは、生き残った人たちの“溜飲を下げる”効果はあるかもしれないが、戦争そのものを回避する解決策にはなり得ない。東京裁判も然り、、、、だと思っている。
というわけで、みなさんに質問だけして、自分が答えないのはズルいから、書いておくけど、、、「どんな結果になろうとも、その行動が正しかったと思い続けられるだろうか?」ってことを・・・。
私は、結果に左右されます。
戦友や味方を失ったという結果の後では、ヤギ飼いを殺さなかったことは正しかった、自分の判断は正しかったとは絶対に思えない。そして、多数決でヤギ飼いを殺したとして別な結果に見舞われたら、彼らを殺したことをいつまでも悔いることだろう。
だから、私は、結果論が嫌いで、結果がわかっていることを根拠にしてロジックを組み立てる人が嫌いで、正義を為すために歴史を根拠にするような連中が嫌いなのである。。。。まぁ、それは、どうでもいいことだけど。
結果に左右されない人は、スゴイ。仲間が殺されても、ヤギ飼いを殺さなかったことを悔いない人はスゴイと思う。。。。。。。
っていうか、結果に左右されない筋の通った“正義”の論拠があれば、それを知りたい・・・・と思っているのだが、、、、、
マイケル・サンデル教授の『ハーバード・白熱教室』を観て、『これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学』を読んでも、まだまだ、よくわからない。。。。が、そんなものはないんだろうなとも思ってる。
話は脱線するが、、、チリの地下シェルター、何人も閉じ込められてるみたい。
不謹慎ながら、私も、いやらしいジレンマを考えてみた。それは、、、
地下に閉じ込められている人は、太った人から、痩せてる人まで、さまざま。そこで、食料の分配をするわけだが、全員に十分な食料が供給できなくなったとして、どのように分けるのが“公平”かを考えてもらいたい。
デブは、少しの間、食べなくても死にはしない。ガリガリに痩せてる人はすぐ死んでしまうだろう。なら、、、デブには少なめに、痩せには多めに、食料を分配するのが公平なのか?それとも、デブや痩せに関係なく平等に分配するのが公平なのか?
まだ、結果は出てないから、今のうちに、自分なりの“正義”を出しておいてねっ!(特に、皇軍がどうしたとか、A級戦犯がどうしたとか、人道面を強調し、綺麗ごとを炸裂させている人たちの考えを聞きたいぞ!!)
閑話休題。
先日、読み終わった『失語の国のオペラ指揮者―神経科医が明かす脳の不思議な働き:ハロルド クローアンズ』に書いてあったことなのだが、、、、
クローアンズが、足の親指を骨折した時の話・・・・。
彼は、もう、痛くない、普通に歩ける、、、、すなわち、足の親指の骨折の痛みを忘れた頃、朝のシャワーを浴びた後、シャワールームから出るとき、その親指を、敷居に、しこたま、打ち付けて、悶絶した後、何故、そうなるのか?を考察する・・・・・くだりがあるのだ。
彼の“発見”によると、知覚神経からの持続する刺激の入力は、脳内では処理されなくなる。骨折当初は痛くても、しばらくすると骨折が完治していなくても、痛みの信号は、知覚神経を通して“脳”に運ばれてくるが、そのシグナルを“脳”が処理しなくなるのだという。
パンツをはいた直後はパンツの感覚があるけど、そのうちパンツをはいていることを感じなくなる。ネクタイをキュッと締めた後、しばらくは苦しいがそのうち感じなくなる。アレと同じ理屈らしい。
この時、脳内では、選択的に“足の親指の痛み”だけが、処理されないなら良いのだが、その他の知覚情報も、一緒くたに、処理処理されなくなるのだという。
そうすると、どうなるのか?
ふだんなら、足の筋肉の状態や膝、足首の関節の曲がり具合から、地面から足底がどれだけの高さにあるのか、正確に知ることが出来る。
でも、足指の骨折の痛みを“麻痺”させているときには、この地面からの高さの感覚も、狂ってしまうのだ。
だから、骨折した指を、また、ぶつけて、もんどりうつことになる・・・のだと。
これには、納得した。
そして、これは、もしかしたら、“精神的に耐えられない結果”に持続的に曝される(自分の気持ちだから、曝されるというのは語弊があるんだけど)ことにも言えるんじゃないかと・・・・・。
ヤギ飼いを解放した結果、同胞が何十人も殺される、、、、、
あるいは、
ヤギ飼いを殺す、、、、、、
両方とも“受け入れがたい”事象だけに、それぞれを行ってしまった後に、自分の精神のバランスをとるために、正義の感覚が変化する・・・・。
これって、生理的なことなんじゃないのか・・・・なぁと、思ったわけだ。
これが、本当かどうか、わかんないけど、自分なりに、この結論に至ったとき、私の『結果論が嫌いで、結果がわかっていることを根拠にしてロジックを組み立てる人が嫌いで、正義を為すために、歴史を根拠にするような連中が嫌い』が、理論付けられたような気がした。(結果論は、エピメテウスで下衆の後知恵ってこと)
しかし、これが、生理的だとして、それの意味するところはナンなのだろうか? 何かの利益になっているのか?正義にも多様性が必要なのか?????